こんなのどう?




[0] こんなのどう?

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 3月31日(金)21時52分33秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp

課題図書の提案をしましょう~
年末番外に〝こんなのどう?〟とか、レギュラーの読書会で、お当番のときには他の課題にしたので出さなかったけど〝こんなのどう?〟とか、通常の番外(?)で〝こんなのどう?〟とか……そんな感じで、読書会で取り上げたらいいんじゃないかなぁ~と思った図書を書き込んで下さい。
本のタイトルと著者を書き込むだけでかまいませんよ。
どう?





[39] 「反日種族主義」を読んで考えた

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2020年 8月 3日(月)12時34分30秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

毎日コロナ騒ぎでうっとおしい日々が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか?
いくつか読んだ本の中で気になった本を挙げてみた。
読書感想として
「反日種族主義」を読んでみて
李栄薫著  文芸春秋社刊  2019年11月発刊
これは韓国にてベストセラーになった刊行物にて私もどのような内容なのか非常に気になっていたものなり。近所の市立図書館にリクエストを刊行直後の頼んだもののコロナ問題による図書館閉鎖もあってようやく昨週配本の運びとなった。
この著者、李栄薫氏は韓国人にてその他に金洛年、金容三、朱益鐘、チョン安基、李宇ヨン、各氏の韓国人が「日韓の基本課題」をテーマにして評論しているのではあるが現在の韓国におけるセンセーショナルかつエモーショナルな部分に対し真っ向から否定をし、あまつさえその問題の根源を自国民(この場合韓国人)の「虚言種族」として論断する非常に「過激」な内容になっている。
またこの本を邦語訳担当した人物も産経新聞社編集委員の久保田るり子氏とこれまた西岡力氏の2人にて有力な日本の右翼の解説者でもある。日本の国粋的右翼人にとっては泣いて喜ぶ内容でもあるがよく読んでいくと感情的にはならずに資料と具体的事実を基礎に懇切丁寧に韓国における情緒的な歴史認識とそれを意図的に「政争の具」として煽り立てある意味「飯のタネ」にしようとしている韓国のインテリの一部に鉄槌を食わした形になっている。
「強制労働」「強制動員」「日韓請求権問題」「賠償問題」「従軍慰安婦問題」「竹島問題」果てはオカルトじみていて日本では首をかしげたくなるような「風水問題」など日韓の問題意識を持った人物なら垂涎の課題が目白押しでもある。
これらの課題は一部李承晩韓国大統領の時代よりあったものの大部分がここ20年くらいから噴き出た問題でもある。
かってこのような問題はあったのかというと私が中2より所属していた「日本朝鮮友好協会」時代も含めて初めて聞く問題ばかりであった。つまりこの手の問題はかっては一応きちんと事実関係が専門家や活動家の間では整理されていていわゆる「問題」にはなりえなかったという事だ。
我々が20代頃は南北の国力の差は今とは逆転しおそらく3対1の割合で北鮮が圧倒的に有利にて、朝鮮総連と韓国居留民団の関係(日本では韓国学園と朝鮮高校の差)は参政権問題や居留問題等で見解を異にしむしろ北より南の方がはるかに「反日色」が強烈で逆に北鮮に「親近感」を朝鮮問題の活動家としては覚えたことを思い出す。
明確に変化したのは1965年の「日韓条約問題」と今ではあからさまになった「拉致問題」(これはかなり後になり正確なところ金正日体制になって発覚した)だろう。特に後者はこのことによって評価の差はあるものの「平均的な」日本人の間では極東における大日本帝国が犯した「アジア人民への抑圧コンプレックス」をかなりな程度に「減少」させたという「歴史的意味」を持ったという事だ。極東において日本帝国は特に朝鮮と台湾にそれぞれ「総督府」を置き直接日本人の長官が統治をした。当然の事、府には現地人の「諮問機関」はあるものの代表権という参政権はなくその意味で「植民地支配」という事は事実である。これはかっての米国独立戦争の独立課題と同質の問題でもある。人民は「堕落・腐敗した自分たちの民族政府」より「高邁で清潔な他民族支配」の方を「嫌う」ものである。朝鮮では「日帝支配36年」と言い台湾では「日本統治51年」という。支配のスタイルはさほどの「差」はないと思った。(両者とも武装叛乱はあったが)同じような支配体系でありながら戦時動員でも片や「強制・奴隷労働」とし方や「職業訓練期間」という事で前者は「賠償・訴訟問題」となり後者はついこの間まで台湾人民が「同窓会」を継続的に「現地日本」で開催し「日本統治時代」を「懐かしがっている」という雲泥の差となって表れている。この差の問題点をこの本が資料を駆使し丁寧に「解説」している点だろう。
日朝友好協会会員時代よりこの差がよくわからなかったが朝鮮・韓国人と昔から接点を持つと朝鮮人が何故対日本人となると極めてファナティックにいきり立ち、極めて細かいことでも全てにおいて諸悪の根源を日本と日本人に求め核になるものがこの本によると「虚言種族」という事になる。金大中大統領時代まではこのような偏執狂的なところは特に目立ちはしなかったがここ20年はますます強烈になってきた感がある。この根源は自分流の解釈では「虚言種族」というより、2つの国の「国民国家形成」の問題ではないかと思えるのであるが、これを展開するとこのスペースでは足りなくなるので別の機会とする。
 李氏朝鮮時代も含めて朝鮮における文化的なイデオローグと政治支配の階層は全て「両班」が独占してきた。(日本では近世以降は武家階級であるが)彼らは極東における「華夷秩序」の中で常に「倭」を自分より格下の者と見てきたがそれが近代以降「37年」に渡り自分たちを「支配し」あまつさえ併合までしたのだがそれに対して「有効な反撃」をできないまま他国との戦争の結果(太平洋戦争)で「独立」を得たことに我慢できずにいる。それの「合理化」の結果夜郎自大的な妄想に駆られまた日本におけるリベラルな部分(左翼ではない)の「坊主懺悔」的な姿勢に助けられて勢いを得ているのではないかと思った。
現代におけるインターナショナルの意味とはいったい何んなのか?コスモポリタンと明確な差異は「ナショナリズム」の処理の仕方にある。コスモポリタンがナショナリズムを諸悪の元凶として否定するのに対してインターナショナルはその存続を否定しない。と言ってもナショナリズム同士の軋轢への解決は相手のナショナリズムを無批判に受け入れる(これを当時「坊主懺悔」と呼んだが)ことでもなかったはずである。
かって若いころ「入管闘争」という入国管理における外国人の取扱いの問題(今もある)のがあり日比谷公会堂で華僑の青年(華青闘の部分)たちから我々日本人の活動家に対して「被抑圧民族諸君」と大声で罵倒されたことを思い出させる。
今となってはその「中華人民共和国」も色あせ、バンドン精神も廃れ、非同盟中立も消し飛び、更には「新中国」「人民中国」の看板も朽ちた。ウイグル族に対する弾圧だけではなく南シナ海における「九段線問題」やアジア・アフリカ諸国に対する債務不履行の担保として鉱山採掘権・港湾の利用権・他国の領海の「漁業権」を99年租借という形で押さえてもいる。歴史の教科書によると百数十年前の清国との「アヘン戦争」で当時の英国列強が香港・マカオの土地を租界地として99年の約束で取り上げたのとさほどの差はない。
スターリン国家がやはり中国にも伝染し先祖帰り的に「大国主義」になっていったわけだ。その意味では「文化大革命時代」に鄧小平・劉少奇を「走資派」と糾弾したのは今となっては当たらずしも遠からじという事だろう。それに南北朝鮮が「事大主義」的に密着してもいるようだ。そういう日本も米国に「事大」しているのも事実でもある。「目くそ鼻くそ」の類の話なり。
以上


2020年(令和2年)7月29日(水)
戸室正一記




[38] コロナウイルスの感染の先にあるもの

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2020年 4月 5日(日)19時03分10秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

所感
小松左京の小説に「日本沈没」というのがある。これは「日本列島が物理的に沈没」し無くなってしまうというSFネタである。その危機を目の当たりにしたフイクサーが国内中の最優秀かつ最高の知識人を集め集中して討議させた結論の最善策が「何もしない」という結論であった。これは日本の歴史と日本人の特性を考慮した結論でもあった。詳しくは原典に当たってみてほしい。
すこし観点を変えるが現在のコロナパンデミックにこれを当てはめて考えると今の日本国政府の「施策の合理性」が見えてくるのではないのかと思えた。
まず政府のやろうとしたことは先ずは「発症した人のみ」をピックアップして「入院」させる事であった。これは不確実の要素を含むがおそらく中国の武漢での経験がそうさせたのではないかと思われる。
PCRの検査キットの在庫が限られていること、精度が確実ではない事、日を追って複数回試験をしなければならない事、それでも誤差が生じかねない事、発症の8割の人間が軽症もしくは無症状であること、重篤及び死亡者は高齢者で基礎疾患が見られること、比較的若い人には軽症者が多いことであった。
毎年日本でも通常のインフルエンザは繰り返し流行し10万人くらいの人間が肺炎で死亡していることを考えると取るべき方法は発症し中程度や重度の患者のみだけを隔離し入院させるしかないと判断したように思える。感染率や死亡率も例年のインフルエンザよりも少し高いくらいだと算定をしたのだろう。
ここで政府は声だけのリップサービスと危機感を言葉で植え付けるだけの消極策であり上記の格言の「何もしない事」に行き当たるわけだ。
但しこれは日本だけが行っているのではなく、ノルウエーや英国もこの策を取ったため英国では首相や皇太子まで「り患」してしまった。
通常のインフルエンザであれば「放置」し「集団免疫」の形成がなされれば毎年恒例の「年中行事」の高齢者の10万人死亡で終わるはずである。
但し新型であるがゆえ、えたいの知れない反応が人間にどう及ぼすのか見当のつかない部分は出てくる。
特に後進国や国民医療体制の不備の国(特に米国は後進国並みに医療体制が貧弱である)は燎原の火のごとく広まるであろうことは考えられる。
政府のコロナ医療チーム専門家会議での方法論は発症した症状の部分を軽症者と重篤者に分けICUなどの危機を極めて限定的に重篤者にシフトし(当たり前だが)軽症者は自宅療養かADLが自立しているため隔離施設としてホテルとかできたばかりのオリンピックの選手村に居住させせいぜい毎日の検温と規則正しい生活の確立くらいしかできない。(治療薬がないため安静にするしかない)これは感染者と非感染者を積極的に分離させる(韓国はこの方法論のよう)方法ではなく、あくまでも感染者を「把握しない暗数」として置き日本人の「集団免疫」の確立を狙っているように見えた。「集団免疫の確立」というのは言い換えれば潜在感染者を積極的に探さず「野放し」にして国民の5~6割の感染を自然に求めることになる。(あえて10割を求める必要はなくこの程度で感染力が収まるのは数理統計法という式で計算できる)
専門家会議の内容を聞いていると普通のインフルエンザに毛の生えた程度の損害認識であるためか積極的予防策は講じずであった。そしてワクチンや予防薬の量産体制までの「時間稼ぎ」として考えているように思える。
その会議の論調を右派のジャーナリストでもある木村太郎氏(84歳)は「専門家会議の結論は姥捨て山政策だ」とこきおろしていて面倒な高齢者を意図的に切り捨て(コロナ感染による)を狙っている様だともコメントで断定している。
これは日本が世界トップの老人人口を誇っていること、寝たきり老人がやはりトップであること、年金・医療・福祉が老人人口の上昇により税収入及び消費税のネックになっていることからである。そしてクラスター発祥の現場はナイトクラブ・ライブハウスと並んで障碍者施設・病院・高齢者施設であり前2つは多分該当しないが後ろ3つは高齢者がダブルでかぶっているはずだ。
ここで「集団免疫獲得方法」という政策をとれば上記の今までの懸案事項からかなり「解放」されるという事に結果なるからでありこれを称して木村太郎は「姥捨て山政策」といっている。
新型ウイルスや新細菌の感染症との戦いはおそらく今後も延々と続くことになり少しも休まることは無いだろう。その為陳腐な「各家にマスクを2枚配る」という「積極政策」が出てこざるを得ないのではないのかと思えた。 以上

2020年(令和2年)4月5日(日)



[37] 統計と暗数

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2020年 4月 4日(土)14時08分48秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

 所感
 例のコロナ騒ぎの問題でよく解らないのが「確率」の問題と「暗数」である。例えば今回の症例を元に国別のそれを見ると典型的なのが韓国と日本の数値である。
 韓国の方はとにかく「全員」を対象にしているが日本の場合は分母集団を絞って取っている。分子の方は擬陽性や偽陰性という誤差を考えると正確なものではないにしろ近似値的に数値は近いものとはなる。また韓国が「全員」と言っても「全国民」ではなく大邸市にての感染者を少し多めにとった数で必ずしも市民全員ではない。
 日本に至っては一定の症状が出た人間をサンプルを取っての検査であり当然の事「普通の風邪」やその他の「インフルエンザ」にり患した人が多く紛れ込む。今でさえも「コロナり患者」より「普通の風邪」等で体調を崩した御仁の方が多いはずだ。1200万の東京都民でさえコロナは1000人いってはいないのだから(実際は解らないし暗数が潜んでいる)。
 だとするとこの両国のコロナ発症分母は比較になるのかという事である。またその中で「暗数」を入れるとまた変化する。
 スペイン風邪でも日本全土に蔓延したとされてもせいぜい5割くらいな物だろう。ここで更に個人免疫と集団免疫とがあってウイルス症の場合後者の方を取るようだ。天寿を全うしてもり患しなければ発症しないのだから(抗体もへちまもない)ね、これもよくわからない。誰か教えてほしいがさて。以上



[36] 医療と環境

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2020年 4月 3日(金)13時03分54秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

 所感
 第1次世界大戦時に欧米を中心に「スペイン風邪」というのが流行した。これは今では極めて「平凡」なインフルエンザで当時の医療水準では原因が把握できず感染症とは理解できてもウイルスの存在把握に行きつくには少し時代を経なければならなかった。
 当時「細菌」の存在は知られていたのでそこに研究が集中したのは仕方がないことでもある。ただそれ以前より平安時代より江戸時代等の古文書を見れば「流行り病」として文献が散見される。当時の人にしてみれば一応元気な人間が短期間に死亡していくのは「鬼か蛇」の類の「たたり」と思われても致し方がない。
 つまりはこの手のウイルスの流行は伝染病(細菌の)の流行と同時並行に人間界に時々出現し「猛威」を振るったという事だ。
「スペイン風邪」に話を戻すとこの手の資料を見て気が付くことは、この病の特徴は肉体的に脆弱な老人や子供に死が舞い降りたのではなく徴兵された20歳前後の「健康」な兵士に結果が及んだという。
 もともとの震源地はいろいろ言われてはいるが米国東部の田舎当たりであったことは動かしがたいようだ。それが兵士の動員や復員を経て世界中に広まったことも動かしがたい。
 ではなぜ「健康な兵士」に死亡率が高く(そのために世界大戦の終結が早まったとされる)なったのだろうか。当時の戦争の主なスタイルは戦線の伸び切った「塹壕戦」であった。これは歩兵を主とした陣地戦で東部・西部両方で同じような現象が起きていた。
 どぶの様に水はけの悪い塹壕で足の半分を水につけ換気の悪い「掩体壕」で食事をとり散兵戦で銃剣突撃を繰り返すというスタイルが延々と続いたという事だ。そしてこの衛生環境の極悪の中でインフルエンザが持ち込まれれば燎原の火のごとく敵味方を問わず伝染していくのは後知恵になるが今となって考えるに「当然」の事になるだろう。
 また前線に届く食料もコンスタントにはいかないはずでこれではいくら「強靭の肉体」をもってしても短期間で「崩壊」させられるのも自明の理だろう。
 更にそこに間断無く続く機関銃掃射と砲爆撃であれば精神的ストレスはマックスとなる。これはインフルエンザだけではなくすべての細菌の繁殖にはもってこいの住処となる。またおまけに後方であろうと兵舎であろうと塹壕であろうと兵士は常に「密集」して待機もしている。(レマルクの「西部戦線異状なし」の小説と映画を見ると一目瞭然であるが)
 そのような場所と、銃後で栄養十分でストレスがなく「自由」を満喫できた場所とどちらが「病気」にかかる率が高いのであろうかは論議を待つまでもない。(年寄りが罹患しても軽いはずだし、何よりも老人は兵士に適さない)
 もう一つ重要なのは「免疫力」である。新大陸発見と同時に欧州から持ち込まれたあらゆる「病気」に対し免疫を持たないインデアンたちが97%の死亡率で絶滅していったことも重要である。
 第1次大戦中であるので兵士たちは今までに何らかの免疫を「持っていたはず」なのに「発症」するのはこの「塹壕戦」という極端な不衛生の結果でこれが免疫力の低下を招いたと思えるのだ。
 今回の「コロナウイルス」にてり患し重症化し死亡する例は何らかの「免疫の低下」によるはずである。この結果はこの騒ぎがひと段落すれば死亡率が本当に高いのか?高いとすればどの年齢で、どのような基礎疾患を持った人にそれが集中しているのかが了解できると思う。若くても死亡するのは上記の基礎疾患を抱えているかどうかによるのではと思っている。
 その為8割の人は軽いか症状が出ていないかであるのだが日本政府はこの分母の部分の把握があやふやである。おそらく全国民に「検査」をすれば思いのほか重症率が低いのではないのかと思う。(但し私は全国民のウイルス検査はナンセンスだと思って入る。どの様な検査にしても10割正確ということは無くせいぜい95%くらいだし誤差は出てくる)
 結局はこのように世界中に蔓延するとこの新型ウイルスと付き合っていくしかない。そして普通のインフルエンザ流行の様に軽症であれば自宅静養重症であれば「入院」という事になるのかという事だ。今は軽症だろうと無症状であろうと「入院」になっているようだがこの部分は自宅なり一応「隔離ができる施設」に移動させるしかない。
 但し老齢で免疫力が低下(老人であればいずれ皆そう)していて基礎疾患を持っている御仁でり患した場合の死亡率はかなり高率になるのは推測できる。また若者でそのような条件であればやはり同様な結果となる。
 但し日本の様にインフラが整備されきれいな飲み水と豊富な食糧事情、健康的な住居空間があれば罹患することにはなっても重症化や死亡に至る率は普通のインフルエンザより少し高めで推移するのではと予想するが。(この部分はアフガニスタンで死亡した中村哲氏の言っていた部分である)とにかく「戦争」がインフラの破壊と衛生状態の悪化・栄養不足を招く最大の要因である。これは私の主観で記載した。コロナ問題はこれにどのような注釈をつけるのであろうか。  以上  合掌



[35] あれかこれか

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2020年 4月 1日(水)20時31分4秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

所感  パンデミックとトリアージ
 コロナウイルスの今後の動きがまるで見えない。以前見た「復活の日」という映画(これ小松左京作か)と内容がかなりダブっていることを思い出した。
 さてこのようなパンデミックになるときの都内における「拠点」として防疫対策の組織は都の場合「福祉保健局」主管である地域の「保健所」である。しかしすでに某極右でもあった石原某知事の政策により聞こえの良い「統廃合」の結果すでに地域では消滅したか、有っても人員削減の結果「機能」を全く持ってはいない。
 もう「福祉保健局の局」しかないのであり、これは児童相談所も似たような形骸化した組織しか残ってはいない。
 つまるところ「専門職」をほとんど切り捨てた結果「事務屋」しかおらず、これで全てを回している。
 それを選んだのもやはり「都民」なのである。さてこんな愚痴を言ったところで人材なんてすぐには育たない5年十年と係るものである。都民はそこまでは見えてはいない。
 迫りくる「医療・福祉崩壊」から都民を守るとするとある意味での「命の選別」をおこなわざるを得ない時が近い将来来るだろうしそれも週間単位でである。
 その時必要になるのがトリアージという手法である。コロナの例を取ると軽症者は「自宅待機」重症者のみピックアップしてICUに入室させる。もともと重症者対応のキャパは数に限りがあり当然の事全員見れない事態が多分出てくるだろう。
 その時どうしても先行きの希望が持てる「患者」を優先せざるを得ない。これ逆に言うと「希望の持てない患者」を切り捨てるという事である。
 直近では東北大震災の時出現した。現場の医療スタッフの長(大体は医長がおこなうのだが)が現場の医師に「命令」して「望みのない患者」にはそれ以上手をかけないで放置するか、苦しんでいればモルヒネを投与して次善の策に転換させる。いうなれば「絶望的患者」は積極的に手当てせずより助かる命にシフトさせるのである。
 限られた空間・限られた材料・限られたスタッフの中で何を優先させ何を切り捨てるのかという手法が「トリアージ」なのである。現場で「黒切符」を切られたらそこで親族はあきらめるしかない。
 ではベッドが一つしかなく同じような症状の患者で年齢差や性別、社会的地位が出たら医師はどのように判断するのが「合理的」なのかという事か?私としては一つはより若い方をチョイスするだろうね。その意味でも「命」は同じではないという事だ。
 もちろん「合理的選別」をしたとしても「俗人的」というバイアスは出てくるだろうが。
 こんなことにならないのが一番いいのだが。差し迫る危機は「ほうれ」すぐそこまで来ているような気がするのだが。予感が当たらないことを希望するのであります。以上  百拝



[34] 所感

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2020年 3月19日(木)17時01分55秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

 爺の呆談
 この頃嫌な予感がする。席巻する「コロナウイルス」の「世界性」について、国境を越え、イデオロギィーを超え、民族を超え、文化も超え、そして貧富の差を超え、この極めて「普遍性」を持った「病原性」に対しどのような対抗する有効な仕掛けが存在するのかというと、かなりの「ローテク」である、国民国家の権力を使用しての「物流の遮断」という方法論しかない。
 此の物流と市場経済においてはマルクスいわく「人と人の関係が物と物との関係に置き換わる」(物象化・物神化論というのだが)ことでその基礎が「世界的分業体制」に全てが根差している。
 物流の背後には「人と人の関係」が働き、生産力の向上が極めて容易に個人を「共同体」からの「離脱」を実現してきた。それゆえ「観光客」もある意味「物流」とさほど変わらないし、いやそれそのものでもある。
 その為極めて「ローカル」な事例が瞬時にして「世界性」を持ちうるし我々はどのような政治体制を取ろうが「資本の世界性」からは何人も離脱はできない。さするとこのような現在の事態で唯一方法を取るとするなら「国民国家の強化」というベクトルしかないようだ。
 私の妄想だが安倍政権は「戒厳令」と「クーデター」を狙っているのではないかと思うのだが、まんざら「虚言」ではないように見えるのだが。以上  合掌  私の妄想が外れることを祈ろう。



[33] 雑感

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2020年 3月 2日(月)16時44分24秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

 雑感パート2
 前回よりの続きと相成ります。
 前回の部分にて舌足らずのは「カラマーゾフの兄弟」中の「劇中劇」というのは「大審問官」の部分でありました。慌てて記載したためこの部分が抜けておりました。
 さてこの小説の神髄は「神が存在するか否か」という事でありましたが、またいなければ「神を造ってしまえばよい」という事ですね。そこに尽きます。
 以前TVか何かで中学生?が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに「大人たち」は慌てふためいたり沈黙したりして少々混乱したことを覚えていられることかと思います。法律ですら「人殺しはいけない事だ」とは一言も書いてはいないのですから。ただ「罰則規定が」あるだけです。
 「人殺し」が「一律に禁止」されますと、現実に「緊急避難」の場合とか「軍事衝突」、我々がよく目にする「死刑執行」なんぞというものとの整合性が吹き飛んでしまいます。つまり現世では「人殺し」を「条件設定」してタガをはめて実行しているだけです。
 さすると「人を殺してはいけない」というのは道徳的課題とか宗教的テーマという事のみになります。つまり「神がいないのであれば造ってしまえばよい」という事に直結します。つまりは現世において「神の存在意義」は日本においてはこの「道徳的意義」という事に相成ると思います。「神の存在」というのはこの意味において現世における意義であります。
 問題なのは「神の世界」(ヘーゲル的にいう天上界)を現世に持ち込みそれを実現させようとする「運動」の問題点でこの小説にも出てきていましたが、警察の官僚達や政治指導者達の会話に「一番危険なのは過激な社会主義者等ではなく神の御代を現世に実現させようとしている連中」?であるとドストエフスキーが彼らの口を借りて説いているところです。
 まあさしずめ現代的に言うなら「オウム真理教」や「統一教会」、「共産主義者」と言ったところですかね。此の共通項は基盤として「人間の改造」を目指しているところにあります。つまりは「新しいタイプの人間の創造」と言った方がしっくりいくのではないかと思います。ところが現世の政治・宗教セクトでこの課題を持たない集団はあまりないからであります。
 つまりは前衛と後衛、党と大衆、選民と民族、油を受けたものと民衆、悟ったものと凡夫、精神と肉体、まあ考えればきりがないくらいに出てきます。
 我々が肉体を持っている以上「俗物性」からは逃げられず「神の世界の実現」などと言うのは「大迷惑」そのものであります。逆にそれだからこそ自己を「選ばれし者」と考えてしまうのかもしれませんね。
変ななぞなぞクイズみたいになりましたが、これを書いている私自身よくわかって書いているわけではないのでご勘弁ください。合掌  以上



[32] 雑感

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2020年 3月 1日(日)18時35分35秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

「雑感」から所感
 この所読書がはかどり以前読んだ「カラマーゾフの兄弟」を読み返してみた。今度は光文社刊亀山郁夫訳の物をチョイスしてみた。訳としては原や米山よりこちらの方が完成度が高いと見た。
 亀山氏はNHKの「100分で名著」の「カラマーゾフの兄弟」でも出演しており「解りやすい解説」に手掛けていて日本人としての疑問の部分に懇切丁寧に切り込んでくれていたのでチョイスした次第なり。
 ドストエフスキーのテーマは「神は存在するのか」という問いである。この「神」というお題はクリスチャンでも日本人にはなじみがあまりなく概念としては「天」とか「道徳」という方の意味合いの方が日本人にはフイットするのではないのかな。
 私は「神の存在意義」の部分、この小説の「劇中劇」を構成しているイワンとアリョーシャの対話で「現世のパン」と「天上のパン」(これは「自由なる信仰」の意味か)を題材とした隠喩めいた構成で急に「これ1917年のロシア革命ごのスターリン批判」の事ではないのかなと邪推した。当然ドストエフスキーは1917年のロシア革命以前、当の昔に死んでいるわけだからして責任はないのだけどこの点ロシアの「未来」を予言というか「黙示録」風に言い当てているような「錯覚」に陥った。その後ネットで検索すると「大審問官スターリン」岩波文庫刊、亀山郁夫著というのがすでに刊行されており非常に驚いた次第なり。亀山氏もこの点気づいたように思われた。早速図書館のリクエストに入れてみた。
 次に「騎士団長殺し」1部、2部冊、村上春樹著、新潮社刊をわき目も振らづに集中して熟読した。きざなセリフ回しが鼻についたがやはり「文章」は上手だ。しかしこれは「何を抽象化」しているのか「なにを隠喩しているのか」よくわからない。ひょっとして「本人も」わからないのではないのかなと思った次第。
けでこれ訳された場合「欧米文化圏」の人たちにはこのような言い回しは「好まれる」ように感じた。すべてを「観念化」したり「体系化」しないと彼らは気が済まないのかなと思ったが。以上思いつくままに。



[31] 「天皇と軍隊の近代史」加藤陽子著を読んで

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2020年 1月25日(土)17時06分57秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

「天皇と軍隊の近代史」 勁草書房2019年10月刊  加藤陽子著
 この本は昨年度末に出たばかりであり、この加藤氏の切り口は以前より非凡さを感じていた。最初はせいぜい帝国主義の「領土拡張」とか市場経済の世界性とかの「おなじみ」のフレーズに天皇という日本における「特殊性」を織り込んだものか風に構えて読んでみた。
 もちろん彼女はその辺の一連の「定番」要素はさすが否定はしていない。むしろ民衆があれほど忌み嫌っている「戦争」にいやいやながらも(彼女は民衆の方が積極的だといっている部分があるのだが)参加していく民衆の意識形成の土台に注目している。
 最初のカントの「永遠の平和のために」という有名な書作を提示し、戦争の抑止力を国民国家形態の「共和制」に求めている。つまり一握りの君主や独裁者、宗教者が君臨する国家程戦争をやりたがるという筋立で理屈を展開し、民衆が権力を握れば実際民衆自身が兵隊に動員される「被害者」となるためおのずと戦争にブレーキがかかるしそもそも戦争への利害供与を持たないのではないかと論じている。だから世界は早く「共和制」になりそれが抑止力になると強弁している様。
 だとすると20世紀以降の共和制による「国民国家」への移行はその抑止力となったのか。普仏戦争、第1時・2次世界大戦が起こり、強大な君主国家が崩壊した後で民衆による革命を経た後の方が戦争の連続でかつジェノサイドや他民族の抹殺を標ぼうしている紛争が数と量で圧倒している現在、これははなはだ説得力を持たない。この点に加藤は力点を置いている。
 むしろ民衆が権力を持ったからこそ、「民主主義」が確立したからこそ「戦争」の火種が絶えずむしろ拡大しているのではないのかとし、それを近代日本の天皇制国家のありように求めていると考えているようだ。
 明治の元勲たちの資料をバイアスを入れずにひも解き不平武士の諸乱、西南戦争、竹橋事件、日清、日露戦争を解説していると、とても好戦的なものはならずむしろ民衆側からの突き上げ(広い意味での民衆)により為政者たちの右往左往が垣間見れる。もちろん市場獲得や領土的野心を持つに人間は今の世でも沢山いて珍しい現象でもない。
 それに宗教的、文明開化的ミッションもかぶさりある意味これらの一連の戦争も民衆のエネルギィーより出ているように思えてならない。
 いささか私自身のバイアスも入り込み加藤本来の視点とは、ずれが生じたがそれは御容赦下さいませ。
 日本の場合思いのほか民衆と為政者の乖離の幅は少なく本当に一方的な被害者が民衆なのだろうかねと疑問を持った次第で、考えさせられる著書であった。以上雑駁と相成りました。      合掌



[30] 「独ソ戦」大木毅著 岩波新書刊を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 8月 5日(月)21時15分36秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

 所感
 発刊は2019年の6月の近刊書である。
 「独ソ戦」については以前よりかなりの人たちが研究書を表している。この著者は防衛省の防衛研究所所員にてアカデミズムの牙城としての岩波から新書版として発行されるのは極めて珍しいといえる。
 さてこの手の本(独ソ戦)のそのほとんどが第2次大戦のヒトラーの最大の大失敗とし敗戦の重要な原因として挙げている。つまりは戦略上致命的失敗となる同時並行の東西のおける両面作戦はどの国の戦術においても「愚策」とされ決してしてはならない最低の「作戦」として言われてもいるからだが、同じ過ちは太平洋側でも日本が日中戦争と太平洋地域での日米戦の同時並行戦争とも同一視されている。
 さて独ソ戦だが、動員兵力はおよそ西部戦線ノルマンデー作戦(せいぜい合わせて20万人の兵力)の10数倍以上にて双方250万人(ほぼ100個師団以上か)の兵力であったとされる。しそれ以前の独ソ不可侵条約が結ばれる前よりヒトラーはこの独ソ戦を企画していたようだ。
 ドイツのフランス進行以降西部欧州大陸には歯向かうものは皆無にて残るは英連邦(当時の英国連邦はカナダ・インド・豪州等の自治国が含まれる)のみであった。ヒトラーは英国上陸作戦を試みる過程でいわいる「バトルオブブリテン」作戦を実行するも当初の目的を達し得なかったようだ。
 この本ではこの膠着状態の打開として独ソ戦がはじめられたとする。この極めて「愚かなる両面戦争」の下手人をヒットラーの「独創性」として記していた今までの研究書に対して「否定的」でありむしろドイツ国防軍のプランニングにヒトラーが諾を与えたとして理屈の展開がなされている。
 そこでのドイツ参謀本部のグランドデザインはあくまでも半年のスパンとし短期決戦を目標としていた。それはあまりにも早くフランスを陥落させた経験が基礎となっていたようである。ところが東部戦線では対フランス戦とは全く異なり10倍以上の兵站戦、主要道路ですら未整備、鉄道の軌道幅の差、死に物狂いの赤軍兵士などであり、このことが短期決戦という目論見が極めて初戦の段階で露呈しこの研究書に具体的に記されている。
 そしてソ連を陥落させることにより英国を「交渉」の机に引きずり出す狙いがあったという意味ではそれなりの合理性はあったのだが、英国のチャーチルは「徹底抗戦」を唱えだしとそれを無理にでもテーブルに就かせようとして連日英国空軍のベルリン空爆のさなかこの独ソ戦プランの実行に踏み切ったようだ。ヒトラーは対英戦争のイメージはあったのだが対米戦までは意図しておらずあくまでも英国との講和の手段としての独ソ作戦でもあった。しかしこれを大きくぶち壊したのが日本の真珠湾攻撃でありこのため三国軍事同盟(日・独・伊)は自動的に対米参戦に大きく舵を切ることになる。
 まずこの独ソ戦で一番喜んだのがルーズベルトとチャーチルにて、「我々の秘密兵器はヒトラーである」と言い切っている。(独ソ戦のため対英戦の圧力が相当低くなる)またルーズベルトは対日戦の公然とした切符を手に入れることになる。(ルーズベルトは欧州の戦争には絶対に参加しないという公約で大統領選に勝利した)
 独ソ戦のもう一方の側面は互いの「絶滅戦争」の側面である。お互いに情け容赦することなく女子供も含めた「殲滅戦」に近いものとなった公式ではソ連側だけで戦死者2000万名(実際はこれ以上であろう。ちなみに日本の第二次大戦の住民含めた戦死者は300万人)で300年以上からドイツ人を帝政ロシアの移民奨励策の一環でロシアの各地に植民してきたが独ソ戦が始まってすぐにナチが「民族ドイツ人」としてSS(ナチ親衛隊)に組み込んだため後半にはそのほとんどのドイツ系ソビエト人が殲滅されさらにポーランド、東プロイセンではゲルマン人が根絶やしに近いほどの迫害を受けた。これは独ソ戦初期のSSや国防軍の掃討作戦での蛮行の倍返しという形で終わり、最後のベルリン攻防戦では赤軍兵士のよる女子供の殺戮となって表れる。このため終戦後の満州におけるソ満国境での赤軍南下時の在留邦人の悲劇はこの独ソ戦による殲滅戦の延長ととらえると赤軍の「蛮行」の素地が見えてくる。
 また戦時中のドイツ国内での食糧事情は極めてよく、海上封鎖された分を占領した欧州の植民地より徴発しそれにあてたため窮乏化は起きなかったようだ。
 今まで読んだいろいろな独ソ戦の研究書からするとかなりの重複があるものの全てはヒトラーの「狂気」から出たとする論拠は崩れドイツ国内の研究水準もドイツ国防軍の「無謬性」論は無くなったとしていて、むしろ陸軍参謀本部のミスリードを表面化させた本である。つまり作戦の問題点はヒトラーの責任にさせ合理性の保持を参謀本部としヒトラーの狂気に抗しきれなかったとする従来の論拠にくさびを打ち込む作品であると言えよう。岩波が新書版としてこのような「戦争論」を出してきたのは面白い限りである。
 *別の課題になるが、この日独同盟程、陳腐の同盟はなく、日ソが満州のノモンハンと張家峰で戦端を開いたときには独ソ不可侵条約が結ばれソ連赤軍は満州に兵力を集中でき、独ソ戦開始の直前は松岡外相がモスクワで日ソ不可侵条約を結んだためこれまたソ連赤軍はヨーロッパロシアに兵力を集中できた、という漫画的な軍事同盟でもあった。  興味の方時間があれば一読を。  以上



[29] 「真実の終わり」ミチコ・カクタニ著を読んでみて。

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 7月31日(水)13時18分57秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  返信

 所感
 この本は集英社より19年の6月に発刊された書物である。著者は米国の日系2世にてワシントン・ポスト、ニュヨーク・タイムズ社等にて「書評」担当を担っていたようである。
 彼女の切り込みはトランプ米国大統領をはじめとする全世界を席巻している極端なナショナリズム(当然日本もいの一番に入っているようだが)の勃興の「哲学的基礎」に照準を当てている点だ。
 今までは政治・経済・文化的諸問題を手繰っていきそこでの流行やらスタンスを問題にして着ていたが、その軸を「哲学的課題」に求め、現在の「反主知主義」の原発根拠を「ポストモダン(ポスト構造主義)」の行きつく果てとして描いたことに斬新さが見られる。
 欧米的哲学の軸が要は絶対主義から相対主義に頭を左右に振りながら現在に至っていることは事実のようで私が若いころはカール・ホパーの歴史的相対主義が流行り出してはいたがその文言も「相対主義的ではないか」と大分揶揄されていた。
 マルクス主義・実存主義・現象学・構造主義・ポスト・モダンといういわば「知の流れ」の中で左翼リベラリズムの独壇場でもあったこれらの「旗手」(ラカン・フーコー・デリダ達)達が逆に極右の運動論の根拠ともなったのは「皮肉」と言わないで何であろうか。
 これには技術革新の土台としてインターネットの普及がある。つまり誰でもが「無責任で自由に」発信でき、誰でもがヒットラーにデスプレー上なれるという事が基礎にある。それ以前自己の発言は研鑽を積んでマスメデアのコメンテーターになるか物書きにて出版社に売り込み「本」という形で形成されなければ「影響力」を持ちえなかったわけであるが、誰でもが「無責任」にかつ瞬時に世界に向けて発信できるシステムが端末機のキーボードを打つことで「実現できる」ようになったことである。それと「ポストモダン」の最終結論が事実というものも「相対的」でしかありえず、皆が同時に「事実である」と思い込めばそれがすでに「客観的事実」に「なる」という事であった。
 つまるところ「事実の把握」なるものが、一握りのインテリの「象牙の塔」(研究室での)でのちまちました「作業過程」から出されるものではなく一定数以上の広範な大衆の思い込みの中で「事実が形成」されるとしたことがつまるところ現在の「反主知主義の流れ」を誕生させたという事なのだろう。
 これはかって68年代の広範な反近代運動としてあった「学生叛乱」でもよく言われたことでもあり半世紀の時空を経て現在によみがえったといってもよい。アカデミズムさえつまるところ「事実は発見することではなく事実は創り上げること」なのだという事だ。投げたブーメランが戻り予想もつかなかった全く別の「担い手」にバトンが渡ったという事なのだろう。
 「科学」への全面否定、どのような歴史的事実であっても「単なる物語でしかない」とし、ポストモダンにおける「事実」は彼女曰く「羅生門的現実」(各個人のスタンスによって見えている現実が変わって見えるという事か)しかなく、するとダーウインの進化論も創造進化論(聖書における文言が正しい進化とする見方で米国南部のバイブルベルトの福音派教徒が核)も同列で語られてしまっているという現実も否定はできないという事になるはずであると。つまるところ両者とも「物語」でしかないという結論になってしまう。
 これらの論拠するところがオルタナファクトとなり俗にいう「味噌もくそも一緒」になり何が事実かは「各人の好み」の問題とされる。アウシュビッツも南京事件も慰安婦問題も原爆投下も全ては趣味の問題となると彼女は考えているようだ。このような「絶対的相対主義」が「歴史的事実」でさえ膨大な虚偽を含めた「ネットの情報の大海」に飲み込まれてしまい「検索」はほとんど個人的興味の範囲でしかできなくなっているし、またそのような自分自身のバイアスのかかった検索も自分にとっての「事実」として認識し待っているし、それすらも「無自覚」にならざるを得なくなっていると指摘する。そしてその元凶をポストモダンの旗手たちが「哲学的責任」を追っていると彼女は判断している。
 日本においてはアカデミズムの「牙城」であった代表的な岩波出版等に対してネトウヨが「デマ出版」と揶揄するのもこの潮流の一つでもある。こうなってくるといわいる「客観的事実」なるものが果たして存在するのか存在するとするとどのような方法論で接近できるのか私としてもよくわからなくなってくる。煩雑となりまとまりがつかなくなった。どうかご勘弁のほど。以上



[27] 推薦図書 「改訂版 全共闘以後」

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2019年 3月12日(火)16時13分37秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 久々の面白い、抱腹絶倒の作品を「紹介」したい。
 「改訂版 全共闘以後」 外山恒一著  イースト・プレス刊
この外山恒一なる人物「九州ファシスト党」総裁を名乗り、前回の「都知事選」にも小池百合子の向こうを張って「立候補」するも1万5千票を獲得しあえなく「落選」と相成った人物。
 特異のキャラクターで右翼か左翼かよくわからないが(そんなことはどうでもよい)読んでみて文字通りの「抱腹絶倒」した次第。これほど頭の柔らかい人物は珍しいと思った。部屋にこもって「憂国」の気分にひたりひたすらニヒリステックになるよりこの「本」を読んで、くだらない差異で甲論乙駁をやっている左右の「アンポンタン」を張り飛ばした方が痛快に思うが。さて  「犀の角のごとく歩め」釈迦  合掌以上



[26] 葉真中顕氏の新作2点について

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 2月15日(金)11時46分37秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 「凍てつく太陽」幻冬舎刊と最新刊「W県警の悲劇」徳間書房刊を読んでみたが前者はハードボイルド風の作品で大藪晴彦賞受賞作品なり。後者はミステリィー小説でスタイルが異なる。
 新作品が出るにつけ技術的深化と着眼点の面白さが目に付く。私は後者の方がよく練れていると思うし何しろ言葉のレトリックがわざと錯覚を引き起こすように仕込まれている。一読をお勧めしたい。
 しかしまあよく種が尽きないねえと感心するのであります。以上



[25] 米国の「プア・ホワイト」について

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 2月12日(火)20時02分45秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 米国における強固なトランプ大統領を支えているといわれている「プア・ホワイト」の紹介から。
「壁の向こうの住人達」 副題アメリカ右派を覆う怒りと嘆き A・R・ホックシールド著 岩波書店刊 「ホワイト・トラッシュ」 副題アメリカ低層白人の400年 ナンシー・アイゼンバーグ著 東洋書林刊
 この2冊とも米国の女性の論文である。
 大金持ちのトランプ陣営を支えている強固な米国人は貧乏のどん底を形成しているプア・ホワイトと呼ばれる特に南部出身の白人であり、共通しているのは低学歴、ブルーカラー、そして「低教養」と来ている。これを著者たちは「パラドックス」と呼んでいる。
 筋論で行けば今のトランプの政策中に「低所得者向け政策」なんぞ見当たらず、むしろ前大統領のオバマ氏の方が医療政策等、はるかに低所得者向けの「政策」を出しているのだがそれには本人達の異に返さないどころか「反対」している部分すらある。
 このパラドックスは日本にも見られ低層の住人に限ってより生活状態の厳しい「生活保護世帯」や障碍者の保護政策に厳しいまなざしを向けているし、与党系を応援しているのもこの人たちである。。
 この「原理」はもはや世界共通なのであろうか?なぜ彼らはそこまでして粗野なデマゴギーを熱狂して支持するのか?
 米国民主党の支持者は東西海岸添いの人口集中地帯の都市部住人であり学歴が高いほど民主党支持であり米国の大学院出身は全て民主党支持だそうだ。
 逆にいわいる労働者階級と言われる「ブルーカラー」に至ってはかって米民主党支持であったものが今は共和党の右派を支持している。トランプ支持集会でもヘルメットをかぶった一団(米国においてヘルメットをかぶっての集会参加はブルーカラーのシンボルとさえなっている)が強固に存在する。この実行される政策との逆転現象を著者たちは「パラドックス」と呼んでいる。
 何故熱狂的に支持するのかそれはある意味彼らの「貧しさ」がそうさせるのであるが、かなりの部分中産階級や比較的裕福な連中に対する「やっかみ」みたいなものがそれを支えているといってよい。やはり「貧乏人」は制御しやすいものなのか、それとも以前の「左右の差」はそれほどの差異すら存在しないのかという事になる。また底辺から這い上がってきた人々の方がその底辺でうごめいている人々に辛口なのは読んでみるとなるほどと納得した次第。一読のほどを。 「ただ犀の角のごとく歩め」 釈迦



[24] ベトナム戦争に関する書籍評

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 1月26日(土)19時53分33秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 ホーチミン・ルート従軍記  レ・カオ・ダイ著     岩波書店刊
 トウイーの日記       ダン・ツイー・チャム著  経済界刊
 かって我が若かりし頃、ベトナム戦争に関しての書物にあふれかえっていた。北、解放戦線側及び南ベトナム政府、それを支援する米国軍立場がはっきりとしていてある側から見ると相手が「悪側」というレッテルが貼られた「読み物」が多かったように思う。
 しかし上の2点はそのようなものではなくホーチミンルートに従軍した医者の日記兼メモのようなものだ。ほとんど戦闘らしい記述がなく只々戦傷者の手当てに翻弄された医師としての感想である。
 後者は女医であり最後は戦闘で射殺されその所持品と日記が米軍人の手に落ち紆余曲折の後英訳された「作品」である。
 ピューリタン精神で武装された宣伝臭い「解放軍」のイメージとは程遠くどこにでまある諸国の軍隊が共通して持っている問題点を隠すことなく記述されているのがミソである。
 これ旧日本軍の悪しき伝統とされる諸問題がやはり「解放軍」の中にも発生し、それに頭を悩ませる指揮者や医者の「愚痴」とも思えるのだ。戦場や軍隊であれば国籍問わず出てこざるを得ない課題でもあるわだ。
 強姦、窃盗、徴発、脱走、裏切り、えん戦気分、などが「解放軍」と言えども無縁ではなく一人一人は「俗物」と言い切ってもよい登場の仕方である。その中でこの著者たちは医者としてのプロ意識から「献身」的な勤務にまい進していったという事なのだろう。
 これを読んで非常に「安心」した自分がいることを見出した次第。時間あれば一読のほどを。  以上



[23] 気になった図書

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 9月25日(火)18時57分39秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 「日本近代科学史」村上陽一郎著 講談社学術文庫刊
 この本は1977年に三省堂から出版されたもので確か若いころ読んだような気がする。しかし読み返してみてもとんと思い出せない。
 読んでいくと「技術と科学」との明確な概念上の差異(日本人は明らかに混同しているが)や近代諸科学が欧州のみで発展した事。客観的なデーターの蓄積のみでは東西の差異は全くない(むしろ古代中国に測定技術の累積の方が計画だったり)基礎にキリスト教的世界観(唯一絶対神のそれ)が流れていること。
 日本人は戦国時代より西洋技術(裏打ちされた科学としての「理」をネグった上)のみを「果実」として取り入れて来たため「科学」の深淵さと限界を理解していずそれがある意味「無自覚」なまま現在に来ていることを知らされた。
 私にとっては「知識の私的所有」上重要な本でもありました。一読のほどを。読んだら感想を聞かせてね。以上



[22] 差別と区別のせめぎあいから

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 9月21日(金)15時48分20秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 前回よりの更なる補足として(障碍者論からの経験から)の事例研究
 こうなると我自身「職業病」かなと思えてくるのですが、障害の一種に「アルビノ種」というのがあります。これは生まれつき皮膚色素に変性があり皮膚が「脱色」してしまうのを主訴として出ますがそれ以外にも病気に弱く免疫力が低いといった「症状」が出ます。
 この皮膚等の脱色でありますがどの民族、人種にも一定の割合で出ます。つまり黒人にも全身真っ白で頭髪や眉毛まで白髪から金髪までものの見事に出現します。(病理的な問題にて、混血児とは異なります)更に突然変異として出現するため遺伝的要素も絡み子供にも伝わります。ですからアフリカ諸国にスポット的にアルビノの家族が集団で居住していて黒人(有色人種)社会では徹底して「差別、抑圧」されて村八分同様の悲惨な生活をしています。
 もちろんインドやアジアにも同様で日本にも出現します(私の同僚にもいました)が必ずしも知的障害を伴わないことも多くある(ノーマルな人より重複率は高いのだが)のですがその風貌のため配偶者を得ることができません。(これが単純なハーフとか白人種であればこの限りではないことはご存知の事かと思いますが)
 つまりは黒人社会では「皮膚の色が白い」という事で差別を受けるわけで、白人社会のそれと動機は同様ですが真逆となります。つまりは母集団中どちらが主流派かという事でしかありません。(ちなみに白人種にも出るのですが俗にいう肌が透けて見えるくらいの「白さ」という事です。サンプル写真を見ると文字通り妖艶さを感じさせますが)
 妊娠時の胎児の障碍児「検査」が有りますが、今はダウン症(必ず知的障害を伴う)の「判定」に主眼が行きますが元々はフェニィールケトン尿症、ガラクトース尿症(その他4っの先天的疾患の予防)の発見のためであり、これで陽性と判断されると特別な服薬と処置により「先天的疾患」が回避されることによりその個体が「先天的障碍児」として生まれる事はありません。(わざわざ障碍児として生まれる必要はないわけですからね)その検査技術がダウン症の「予見」につながったわけです。(ダウン症は染色体異常のため現時点では治癒の可能性はありません)その為これも近代の「医療技術」の進歩によるわけです。
 最後の「障碍者と健常者」の結婚について。(差別、区別が入れ子になってしまう現実)
 障碍者の結婚について同じ障碍者の結婚について以前よりかなりオープンになったり差別が少なくはなったと思えますが大体は似たような障害程度のランクにより結婚しています。軽い障碍者と健常者の結婚は以前よりありましたが今はかなり改善はされていますのでこのランクは今のところ問題はありません。ただ知的障害については同一の障害の結婚はありますが(それでも数は極端に低い)健常者との結婚は「遺産目当て」以外は40年の職業的経験上、噂にて1件あっただけでありました。つまり知的障害であることはすでに健常者にとって「恋愛の対象外」となっているという事でしょう。「恋愛」という人生上での「感情の発露」もベースには「理性的計算」が無慈悲に働いていると考えた方が合理的かと思います。こうなってくると区別か差別化の線引き自体むつかしい問題となります。
 特に知的障害か否かの「判定」は「医療技術による科学的判断」だけではなくその地域の文化水準(都道府県の)も判断材料となるので「確定」はあり得ません。(知育は結構遺伝負因が強い)ですので業務柄IQ測定結果の70~80のボーダーの人たち(かなりの数に及ぶ)の「判定」がいつも「問題」となりました。
 読者等の普通の人であればこのクラスの人々の判定において見分けはつかないと思います。「知的で」長身でスタイル美貌が良い男女のケースはざらに居ります。その為結婚生活の「実践」の後、妻あるいは夫の「判定」に訪れるケースがよくあります。これどちらに転んでも「家族争議」となります。
 世の中技術により差別等が「改善」されそれにより更に「差別」が生まれるといったところが現状のようです。私の職業病のなせる業と思ってください。以上とりとめもなく。



[21] 前回の補足(理性と感情のはざま)について)

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 8月18日(土)12時20分6秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 一般的には「そう感情的になるなよ!」とか「理性的に話しましょう」とかいうフレーズで語られるように即時的な対応表現として「感情」を、対自的なそれとして「理性」という言葉を使用することが普通である。これは明らかに感情より理性の方が上位に置いた言語上の使用方法である。
 しかし実際よく考えると理性の基礎を形成していることが感情をベースにしていたり、感情の基礎が理性であったりすることがよくあるしどちらが先かは基本的のは判読不可能なのである。むしろ入り混じっているとした方が正解なような気がする。
 これは「合理的、非合理的」の「思考方法」も同様にて、前者は理性、後者は感情を別方法での表現した言葉でもある。どちらにしても差異なり落差なりをどのように言い表すかの問題でもある。
 例えば皮膚の色や目の色の差異、は厳然としてありこれを認識しない人はいないだろう。ここから「区別」となるか「差別」となるかは「文化」の問題とはなるがこれがはなはだあいまいなものであるよう。
 黒とは漆黒の闇や夜間、顔の表現の不明さ、ここから連想される「えたいの知れない事」が生じ「恐怖」も生まれてくるようだ。こうなると「共通のシンボルからどれだけ外れるか」という事が「不安感」を醸し出しているともいえる。しかし自己の「生活圏」に入り込むとかなり「解消」されることも事実であるようだ。(例えば身内になるとか)
 ヘーゲルのフレーズに「理性的(合理的)なものは存在し、存在するものは理性的(合理的)である」とのことだがこれを「感情」と置き換えても成立するような気もするのだが。似たような用語で「感性」という言葉だと極めて「プラス思考」になるのはなぜだろうか。
 私は何を言いたいのだろうか? 以上



[20] 「憎しみに坑って」の討論の到達点

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 8月12日(日)19時34分32秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 久々の「激論」だったような気もします。
 しかし私としては「消化不良」のようなものを感じました。
 このお題は抽象的な課題として討論しても観念の空中戦で終わるかと思いますので実際の世界でどのように人間の尊厳と人格の了解点の線引きがなされているのかというところから始めた方が実を結ぶような気がします。
 この本は人間の「寛容さ」を求め最低限の「確認」として提示しているところにあります。ただこれは現実世界の中では「蟷螂の斧」でもあり激動の中では真っ先に押し流されてしまうというテーマでもあります。
 人間は他者に対して何故過酷なのか戦争や差別がにひどい状況と知っていつつも世界からなくなることはないのはなぜだろうかという事です。
 根源にはおそらく正義と不正義、善と悪、区別と差別、感情と理性、はたまた幸福と不幸というものが二項対立のようなものではなく互いが侵入しつつ彼我の線引きがフットボールの試合のように色分けが出来ないところにあるような気がしてなりません。私とT氏の論争の核にはこの点における「了解点」が異なるという気がしました。
 相模原事件の植松被告の行為の原点は今はやりの「障碍児の生産性のなさの最終的解決」に問題があるとしたらそれでさえも「中途半端」という意見が出てきます。さらに生産性を求めていけば「重度の障碍者」を生かせておいて彼らから「パーツ」をとれるのではないかという「もっと進んだ考え」も出てくるわけです。
 米国のいくつかの州?で「新生児における無脳児」を「生かせておく」という事がありました。これを慌て者の日本人の一部はさすが「ヒューマニズムの国だ」と即断した様ですが内実はこの新生児から「パーツ」を取るためのであり極めて「実用的な行為」でありました。この州の人民は新生無脳児」は人間とは了解してはいないという事でしょう。(医学的にこの場合無脳児とは先天的に大脳皮質の大半が欠損していて自力では生存が不可能の者を言う)
 またお隣の中国では年間千人に及ぶ死刑執行の際公開銃殺で処理されていましたが「臓器移植」の保持から銃殺による臓器損壊のため中止され死刑執行の形に変化が見られます。(中国政府は公式には認めていませんがあれだけ新鮮な臓器が輸出されているわけですから感ぐらざるを得ません?)
 妊娠期における先進国の「出産前診断」は世界共通ですがほとんどの場合障碍児と判明した時点で「処理」されてしまっているのは事実のようです。ある点から考えるとこれも「相模原事件」と底辺でつながっていると思います。つまるところどこまでを「人間とする」という線引きの「了解点」でしかありません。
 善と悪、正義と不正義が「入れ子型」になっているだけではなく善のある側面が時と場所に応じて悪として作用し、全ての対立の概念はそのように人間世界に作用するという事だと思います。
 ヒットラーと石原都知事似たような思考を持っております。大衆は「熱狂的」に支持しましたもちろん大衆は「全面的」に支持したかどうかはわかりませんし支持した個々の大衆はどの了解点で支持したかも不明ですよね。しかしある時期支え続けたという事実はネグれません。
 ヒットラーが障碍者を全面的に否定したわけではありません。彼の起こした戦争政策によって大量の障碍者となった「傷痍軍人・軍属と市民」については今でも目を見張るべき極めて良質な「障碍者施策」を実行に移しております。しかしその反面先天疾患性障碍者等に関しては極めて過酷であります。ここにもヒットラーの価値観による線引きというか「了解点」があります。
 私は昭和24年に生まれで東アジア・太平洋戦争を知りません。親の代の男性親族は戦死者が5人くらいいて、父母の話を聞くにつけあれほど忌み嫌っている戦争がなぜなくならないのか不思議でたまりませんでした。親からは「お前の代でも戦争をしては絶対いけない」とも言われましたが今の世界を見ていると「戦争」が極めて身近に感じられるようになりました。あと10年は持たないのではないかと思うようになりました。
 戦争と差別・抑圧からの人間の解放を願い実践するために国民的運動を引き起こさねばならないとも思い実践もしましたがその過程で「戦術」として「実力行使」の課題が出てくると最初の「解放」というテーマと明らかに矛盾する場面も出てくるのですよ。
 あと少しで70歳となります「過去のかっこよい行動」はいろいろな人物が記載した書物がありますのでそれを参照してくれればいいかと思います。むしりその「負の側面」の方が重要かと思います。
 次回の「ペスト」にてカミュが言いたかったことにも通じるのかとも思います。これらはどうも「私の戦争」の課題という気がしました。年を取るとセンチメンタルとなります。以上雑駁となりました。
 わたしゃ何が言いたいのか?



[19] 年末番外

投稿者: ツカモト 投稿日:2018年 7月20日(金)12時45分20秒 ac252225.ppp.asahi-net.or.jp  返信

12月は忙しく、出席そのものが怪しいです(実際、ここ数年出れていない)。
でも、たたき台ということで提案します。古典の長編がやってみたいです。

『失われた時を求めて 第一篇 スワンの家のほうへ』プルースト
 全編はとても無理ですが、出だしの一篇
『アンナ・カレーニナ』トルストイ
『ブッデンブローク家の人々』トマス・マン

まあ、こんな本も有るということで。



[18] フランクルの「夜と霧」は同だろうか?

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 6月25日(月)12時31分26秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 極めてオーソドックスな課題本です。
 現在世界的に民族主義的な傾向からファシズム的な内容にと深化しております。日本も似たような展開となり第2次大戦時、ナチのユダヤ人の組織的抹殺という「事実」すらユダヤ人の「陰謀説」だする御仁が日本の極右勢力の核ともなっております。これは対岸の火事ではなく「自分たちの火事」になってきているという気が私「老人」の感覚です。
 日本の内政も以前だったら内閣の2~3つ位消し飛んでいた事件があっても張本人の安倍晋三氏の支持率はいわいる「高止まり」で「低下」は見られません。ちょいと以前の極右を売り物にしていた某都知事の4回にわたる選挙結果でも次点との差が常に100万票をキープしていたのを見ると「こりゃ我々の課題かな」と思うようになりました。
 大衆は反対意見や自己の失点に目を向けないで遮二無二突進する「政治姿勢」に「リーダーシップの存在」や「頼もしさ」を見出しているように思えてなりません。
 「腐敗した絶対政権は絶対に崩壊する」というのは「格言」の一つなのだろうとは思いますが、ところ底辺で支えている「民衆」は「堕落」していないのでしょうかね?
 民主主義とファシズムは相矛盾する政治形態ではなく「双生児」そのものであると思う「私は」単に老いぼれただけなんでしょうかね。「老兵は死なず、ただ若者が死ぬだけ」。以上



[17] 年末番外

投稿者: 天野 投稿日:2018年 6月21日(木)10時01分27秒 202-215-165-2.tokyo.ap.gmo-isp.jp  返信

表にも書きましたが、恒例の(?無理矢理恒例にしてる感、ありますが)年末番外の課題について、いくつか候補を。

高橋源一郎『日本文学盛衰史』講談社文庫 664頁 Kindle版有
平田オリザの戯曲で舞台化と、表掲示板でも話題なのですが。
明治と現代がごちゃ混ぜになって、四迷、啄木、漱石、花袋、鴎外、藤村などなど独歩や一葉もちょろんと出てきて高橋くん本人まで登場し、無茶苦茶です。ですが、彼の明治文学や文学者達に対する愛情や敬意を感じる、ひとつの明治文学論です。胃潰瘍になって血を吐きながら書いた力作。源一郎くんの代表作のひとつになるんじゃないかなと思います。

川端康成『掌の小説』新潮文庫 559頁 Kindle版有
私、昨年も挙げました。
掌編集です。122編入ってます。掌編だからなぁ……と軽い気持ちで読み始めたら、案外読み応えがありました。私は、ダイベックの愛読書だと聞き興味を持ち、読了後、そのまま川端作品をいくつか読むに至りました。伊豆の踊子くらいしか知らなかったんですが。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』ハヤカワepi文庫 450頁 Kindle版有
カズオ・イシグロ『充たされざる者』ハヤカワepi文庫 948頁 Kindle版有
『わたしを……』はそんなに大作ではありませんが、ネタバレ項目が重大すぎて読了していない人とお話ができない、という面倒くさい作品です。この機にやっちゃっておくのもひとつの手かな、と。
『充たされ……』は、彼の作品の中で、最も長い。イシグロ作品の中で好きなものは?という質問に、この作品を挙げる方もけっこういらっしゃいます。タジマさんもそうでしたね。私もです。一番好き。ただし、かなり実験的な作品だと思います。苦手な人には苦痛かも。私も、読み始めた段階で乗り切れず、一度保留にしたことが……。

スティーブ・エリクソン『黒い時計の旅』白水Uブックス 402頁
レギュラーの読書会で出そうかどうしようか、いつも迷っています。新書版で402頁と、ちょっと長めなので。私の好きな現代アメリカ作家のひとりです。ただ、ポストモダンな作品で、話がなかなか見えてこない長編もあり、途中で投げ出しているものもあったりして。でも好きです。随分前に読んで、記憶があいまいなので再読しようと部屋の見える場所に置いてあるのですが、エリクソンの中では読みやすいんじゃないかと。一応、第二次世界大戦を扱っています(というか、確かヒトラー)。

と、とりあえず思いついたので。



[16] 「RED」を読んでみて

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年 4月25日(水)00時12分29秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

「RED」松田行正著 左右社刊 副題として「ヒットラーのデザイン」
 今まで古今東西を問わずヒットラーやナチス関係の書物は特に興味が有って幾つとなく読み込んできたつもりである。
 この本はそのような「理屈」の世界ではなくあくまでもヒットラーをデザイナーとして彼がどのような作為を持って事に及び美術の専門分野に(彼は建築デザイナーであったが)微に入り細に入り分析した「解説書」である。
 私がヒットラーに興味を惹かれるのはユダヤ人のシステマチックな大量虐殺という以前に何となく「官能的な」魂を揺さぶる「かっこよさ」の部分である。評論家たちは「演出道具」と呼ぶのであるがそれにしてもかくほどのスマートさはどこから来るのであろうか?
 それに比較して同じ独裁者にしてスターリン・毛沢東・ムッソリーニやはたまたフランコ将軍の何たる「やぼったさ」を感じるのは私だけではないだろう。
 それゆえ最大級の罵声や非難を前にしても彼がデザインした軍服・威信行動・集会・整然とした戦旗の波・乱打される太鼓・各種兵器・戦術・そして魅了してやまない演説集会等ある意味全て計算された演出ではあるのだが今でも十分に通用する「政治技術」ですらある。この本はここに焦点を当て他国の同じようなプロパガンダとの比較において抜きんでた表現方法として論評している。
 この1歩先んでた内容とは「政治技術」というより「芸術性」に近くその核心は「セクシュアル的官能性」にあると思えた。であるがゆえ「歴史的普遍性」をも超えるのではないかと思う。
 そしてその点に各国の「指導者たち」も気が付き各々「コピー」を試みるのだけどやはりいまいちなのである。その官能性の基底には原始宗教的な要素を織り込んでいるためこれまたコピーが難しくもなっているようだ。
 人間の幼児性の中に「刷り込み現象」というのがあり(英語のインプリンテング)生まれて初めて外界に出た時「自己より大きな動く物体」に同調(動物の場合「親」と思い込む)するシステムが内在している。
 特に五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)に対し繰り返し訴える行為に対しては人間でさえも「無防備」となる。
 例えばどんな宗教集会(政治集会も似たようなもの)でも繰り返される単調なリズム音楽、うす暗い中の天井の高く光が差し込む部屋、たいまつやろうそく・ヘッドライト・ステンドグラス、お香や体臭のむせ返る中、スクラムを組む腕、唱和するスローガンやお経、この集団の中に入るとどのような理性的な「人間」でも理性の閾値が下がり「トランス状態」となる事請け合いである。
 すると簡単な「文言」でも理性を解体して組み込まれバイアスがかかった状態となる。更に「お酒」や「薬物」(原始的な集団の場合たばこが多いが)を回し飲みされると効果のほどは抜群となる。古今東西の政治・宗教集団は全てこの手法を必ず使用する。(オウム真理教なんぞは典型例)この文字通りの「悪魔的手法」は「善魔」も使う。一旦刷り込まれると「戦争は平和」であり「不幸は幸福」となる。集団としての人間には「理性」は存在しないので個人のあがないは「蟷螂の斧」となる。
 私はヒットラーにこの「セクシアルな官能性」にひかれたのかなと思った次第だ。以上



[15] 「反共感論」とは

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年 4月20日(金)14時45分44秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

「反共感論」 ポール・ブルーム著 白揚社刊 を読んでみた。
 よく「サイコパス」は共感性に欠けることが「病理」の特徴だとか、人と人の間を意識的にしろ無意識的にしろ共通の「感覚」を保持しえることが社会性を保ちえる「要素」なんだとか言われるのだが、むしろ逆に「共感性」があるからこそ「問題」が露見している場合が多い。共感性の存在よりその共感性の「内容」の方が問題であるといえる。
 例えばナチの親衛隊の共感性はユダヤ人は寄生虫であり絶滅させるべき「病原菌」であるという共通の認識それも強固な意志があるため女性だろうが赤んぼだろうが無慈悲にガス室に送り込み憐みの場すら起きずあまつさえ「使命感」を構成することができるわけだ。これは刑の執行する側にも女性や若人がいたにしても嫌悪感はおろか誇りすらを持ち自信をもって行っていたのであり、これも別の意味の「共感性」の発露でもある。
 つまり全人類共通の「共感性」は時代やその時の危機意識により結構変化していて固定化したそれはあり得ないという事だろう。その意味で「共感性」とは何が主流派になるかによって逆転する可能性がある。
 トランプ大統領や日本の安倍首相があれほどの気まぐれや失態を起こしながら今なお現在の地位に連綿と居座っていられるのは退陣要求と同時に「強固な支持者」が一定の共感性をもってバックアップしているからに他ならない。普通の時代なら内閣の2~3つくらい消し飛んでもいいようなスキャンダルでさえ多少の目減りはあるものの依然として高支持率であるのは具体的ミスが露見することの要素よりそれでも彼ら自身の「決意性」や「実効性」に期待してのことだと判断するしかない。
 その意味ではヒトラーやスターリンは決して歴史から引退したのではなく別のもっと「スマート」な衣装を着て登場しているにしかすぎないといえる。「人間は決して歴史からは学ぶことがない」とは古くからの「格言」だはあるがいままさにその時代ではあるまいか?
 世界中「独裁者」だらけであるし民主主義自体が「何も決められない体制」として「歴史博物館」に展示されていきそうでもある。以上



[14] 「近代日本150年」を読んでみて

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年 3月31日(土)13時21分47秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
「近代日本150年」岩波新書刊 山本義隆著 副題として「科学技術総力戦体制の破綻」
 この山本は元東大全共闘代表であり理論物理学者を任じている人物。
 内容は明治維新以降の近代国家建設と欧米の「科学・技術」を積極的に導入した政府との関係の「物語」であるが私はこの「科学・技術」としてくくられる「区別と連関」の方に興味を持った。
 むしろ著者もこの課題の方がメインではないかと思えてならない。というのもこの「科学・技術」なるくくりは日本独自の「概念」にて欧米では近年になるまで大きく分かれていたからだ。
 しかし日本では明治維新によりこれがセットで怒涛の如く流入しこの区別がすこぶるあいまいでありむしろ一体化したものと日本では受け止められている。欧米では科学はいわいる「神学」に近く神と人間あるいは自然と人間の関係を取り持ちその解明を目指す。技術の方は市井の職人の領域にて手段及びテクニックとして「なりわい」にて親方徒弟制のもと相伝されていたのである。この二つは19世紀後半になるまで交わることがなかったのでありこの点日本人は気が付いてはいない。
 例えば医学であるがほとんどが「経験学」としてのものであり我々がイメージするようないいわいる「医術」は中世以降「魔女や床屋医者」に近い存在でありメインの「医者」は浮世離れした「思弁家」の集団として明確に分離されていた。
 つまり「ことわり」と「方法論」の分離であったこれが統合されたのは20世紀直前であった。つまり技術なるものは「中世の暗黒時代」にしても粛々として「存在・進化進歩」し少しも立ち止まることがなかったわけである。
 明治維新の日本人たちはこの「科学」の方ではなく「技術」の方に関心の大半を置いたのである。(戦国時代の信長もおそらく同じであったはず)維新時の奔流は欧米列強の軍事力のすさまじさから技術の「脅威」として認識されそれが科学技術ではなく「実学」の問題として把握されたのである。そのため維新政府はこの「実学」の獲得として「外国人お雇い」として欧米の「技術者」(科学者ではない)を大量に雇用したのである。つまり技術に裏打ちされた「科学」の方はどうでもいい問題として映ったに相違ない。佐久間象山の言うところの「和魂洋才」である。
 現代に日本人の大半はおそらく「科学・技術」の区別と連関はついていないし同じものと受け取っているのが大半ではないのか。その点この著作はその歴然とした差を突いているのである。
 それが2次大戦敗戦の問題でもあり基本は現在でも変わってはいなくむしろ戦前・戦中をそのまま継続・発展させ今に至っていると評してもいる。
 私のライフワークでもある「社会事業史・社会福祉史」でも「戦争と福祉課題」は矛盾する対立項ではなくむしろ「融合」する課題にて問題をとらえる必要があるのではないかと思っている。「戦争遂行の資源の合理的な配分」はとりもなをさず「労働力の合理的な保全と再生産」でありポテンシャルを維持するための「障害の克服と軽減及び生活保障」という事で全く矛盾はおろか「整合性」を持ったものとしてとらえていけばかなりの部分「溶解」する。
 これを山本は「科学的合理性」としてとらえているが私は資本が持つ元来の「自律性」として「読んだ」のでした。私に言わせれば「革命」も「社会主義」もはたまた「共産主義」も資本の「自同律運動」そのものでありその間の「タイムラグ」としての存在価値でしかないと判断しました。そうでなければ資本が世界性を持つ意味がありません。そしてこの資本の自律性を底辺で支えているものが「科学・技術」なのではと思います。
 山本のこの著作の趣旨から大きく離れた結論になってしまいました。この作品はそれにもまして読む価値のあるものと思います。一読して「感想」をお聞きくださいませ。以上



[13] 「耳ラッパ」をかじってみてから

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年 3月11日(日)09時08分38秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 この「耳ラッパ」ようやく3割ほど読み上げた。
 これ全体が「狂気」の塊みたいでものすごく読みずらい。意味を取ろうとすると「ほんろう」されるのが落ち。一種の「ジャーゴン」かとも思われた。
見ると「分裂病」にり患されたことがあるようだが!当然話の接合性がないがそれでいて文章が「脈絡なく」延々と続く。本人にとっては何か意味のある事なのだろう。
 この手のファンは少数者なのではと思うが。最後まで付き合うしかないのか。以上



[12] 『耳ラッパ』へのお誘い

投稿者: コバヤシ 投稿日:2018年 2月24日(土)15時48分46秒 sp1-75-8-194.msc.spmode.ne.jp  返信

「混迷する現代に於いて理性を演じられるのは狂気をおいて他にはない。」

 こう言ったのはアンドレ・ブルトンでもなければマルセル・デュシャンでもなく、実は山城新伍(1938-2009)だったのですが、彼が司会を勤める番組の放送中に口走ったこの箴言が、小説という装いをまとったのがこの『耳ラッパ』と言えるかもしれません。

 その刺激的魅力は次の一節からも明らかではないでしょうか。


「正確に言えば警察犬は動物ではないわ。警察犬は動物のメンタリティをもっていない動物の変態よ。警察官が人間ではないのに、どうして警察犬が動物でありうる?」
 これに答えるのは不可能でした。カルメラは弁護士になるべきだったのです。彼女はこみ入った討論がとても得意なのです。
「あなたの論理では牧羊犬は羊の変態ということね」、と私は言いました。


 全編がこの調子。語り手は92歳の耳の遠いおばあさん。親友のカルメラから旧式の補聴器、耳ラッパをもらった日から、ババアのノンストップ・ワンダーランドが始まります。暴走に暴走を重ねるシュールな婆さん軍団にあなたはついて来られるでしょうか。(是非来て下さい。)

 レオノーラ・キャリントン(1917-2011)はイギリス、ランカシャー生まれ、パリ、スペインの精神病院を経て、1942年からはメキシコを〈終の住処〉とします。一時期マックス・エルンストの愛人でもあった画家、版画家、彫刻家にして(劇)作家。絶世の美女でもあり、シュールレアリストたちのMuseの一人(日本なら原泉か)。

 作品に登場するカルメラのモデルはレメディオス・バロ(1908-1963)。スペイン、カタルーニャ地方生まれの画家で、1940年代からはメキシコを拠点に活動、レオノーラとの交流を深めます。バロの絵画はトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』に折り込みで付いています。

 訳者の野中雅代はレオノーラと親交もある英文学者。彼女の翻訳は語学的な精度が高いだけでなく、その狂気も含め作者の私生活と芸術世界に通暁する者にしかなしえない名訳だと思います。


 参考図書

□『恐怖の館』L.キャリントン著 野中雅代訳(工作舎)
□『レオノーラ・キャリントン』野中雅代著 (彩樹社)
□『メキシコの美の巨星たち』野谷文昭著(東京堂出版)



[11] 「アメリカの汚名」を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 2月11日(日)17時28分15秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 「アメリカの汚名」 リチャード・リーヴス著 白水社刊 副題「第2次大戦下の日系人強制収容所」
 今までのこの手の論説はいかにして戦時下の米国で日系人が耐え忍びそれをばねに欧州戦線で尋常でない損害をものともせずに日系の米国軍人たちが「手柄」を立ててきたかという「英雄談」が主軸となっていた。
 もちろんハリウッドの映画にも登場した、日系部隊100連隊、442部隊等米国部隊の中で勲章や死傷率のずば抜けた高さを否定はしていない。
 俗にいう「血であがなった星条旗に対する忠誠」という事も一方の事実でもあり否定もしていない。問題はその「栄誉」の部分から隠れた重大な「事実」がポイントになっている。
 比較的知られていない事実から列挙すると、大きく日系人の居住区がハワイ準州と米国本土西海岸に分かれる。ここで問題にしているナチ張りの「強制収容所」(絶滅収容所ではないことは言うまでもないのだが)に収容された日系人はほとんどが米国西海岸にて生業をしていた部分でありそれがルーズベルト大統領の超法規的「大統領令」にとり72時間のみの猶予でトランク2個分の荷物のみにて住処を追われたことは知られた事実でもある。
 さらにハワイにおいては日系人の中核的指導者たちとカナダ、中南米の同様な人物たちがこの「強制収容所」に収監されているという事だ。米国籍を持つ持たないとにかかわらず更には他国の日系の入植者たちが多く含まれているという事である。(米国内では日系人問題ではなく「米国人問題」なのでありほとんどの若者が米国籍を持っているために米国人問題となる)
 ハワイにおいて日系人はFBIの監視下に置かれたが収容所に収監されたのはそのうちの「指導的立場の日系人」のみであった。これはハワイ準州の日系人比率が4割?にも及んでいるために物理的に不可能なのが「理由」のようだ。
 米本土では総合計14万人が海岸線から離れた内陸の荒地にバラック施設に収容されている。その際時間的余裕が72時間と区切られたため今まで営々と築いてきた資産を文字通り2足3文で売らざるを得なかったというのが実情である。
 クリントンの時代になって戦時下の日系人に対する処遇の誤りに陳謝はしたがその保障たるや当時の価値からは程遠い「保障」でしかない。そのためか日系人西海岸における賑わいは戦前ほどにも今でもいってはいないといわれている。
 日系人の戦時中の軍務貢献度はハワイと西海岸ではかなりの差があり西海岸では家族もろとも「強制収容」されたためか軍務志願率が低い。むしろこの政策に対する反発から日本に対するノスタルジックな思いの方が強烈になっている。
 そのため収容所内における、米国忠誠派と日本回帰派で限りない内部ゲバルトに発展しそれが親族や親子兄弟間で熾烈を極めたと論じている。その分水嶺は米国に出稼ぎに来ている家と定住し日本に戻る意思のない家、若者と年配者、インテリ層と下積み層、単身と世帯持ちなどに分解しそこでの順列組み合わせによるようだ。
 この日系人収容所内部での両派のリンチの応酬はすざまじく自殺者までだし、南米での勝ち組負け組を思わせる場面も出てくるよう。
 また終戦後収容された高齢者たちは生業のすべを無くしたためか「強制収容所」からの「強制追い出し」の際も自殺者を出している。
 生業を無くし元の居住場所には赤の他人が居住し、さらには日系人排斥の機運も色濃く残っているところに「帰宅」するという事自体無理である。資金と言えば米国政府が出した金銭は帰宅の「交通費」のみという実態である。
 強制収容所からの「米軍への志願」はこのような状況におかれた日系人たちの「行為」であり単純な「血であがなわれた忠誠」との美談からは程遠いような気がしたのは私だけだろうか。         以上



[10] 「ヒルビリー・エレジー」を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 2月 6日(火)14時31分58秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

所感
今話題の「ヒルビリー・エレジー」光文社刊、J・D・ヴァンス著を読んでみた。
 副題に「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」とある。お題の訳は「田舎者の悲哀」ともいうのか、但し頭に「白人の」という冠詞が付く。
 つまり田舎といっても米国は州ごとにかなり異なるので収益の低いつまりラストベルト(さび付いた地帯)という東部のアパラチア山脈沿いの田舎の部分である。
 今流には熱狂的な「トランプ政権」の支持者たちの住んでいるところである。ここでは我々日本人が想像しているような米国ではなくむしろ第3世界の住民に近いイメージを持つことが比較的「事実」に近い。共通項は識字率の低さ、アル中毒者の多さ、離婚率、離職率の異様な高さそれもほとんどが何回ともなく繰り返す。そしてて母子家庭の高さ、問題の暴力的解決方法(アウトロー的な)そしてかなりの人がせいぜい高卒がいいところでそれでも中退者もいように高い。更には生活保護受給率の高さ、加えるとジャンキー中毒等のドラッグの蔓延である。更に悪いことはこれらが全て10台から始まっているという事だ。
 周りには人生の模範となるような人物たちが少なく一度足を踏み入れたら抜け出すことはまずは不可能という事、それが何世代にも連なっているという事実だ。これらが全て「黒人」や有色人種ではなく「白人」であるという事なのだが。ニューヨークやサンフランシスコとは全く別の米国があるという事である。
 筆者はそこで育ちファミリーの家庭崩壊(最初っから崩壊しているのだが)を経験し父親も正式義父もわかっているだけで5人非公式を含めると2桁くらいになるのであろうか。そこでは毎日のように繰り広げられる果てしのない家庭内外の「暴力の連鎖」「力が全てであり、物理的な力が全てを解決する」という「経験」の中で育っていてそこから抜け出すストーリィーである。
 ひょんなことから米国の名門大学のイエール大に進みそこからロースクール入りし弁護士開業して現在に至る人生訓を記述してはいる。筆者自身それほど優秀でもないと断っているし今の自分があるのもかなりラッキーの部分に助けられて存在しているといっている。
 自分の生まれ故郷ではおそらく筆者自身しかあの地獄のようなところから抜け出してはいないと「豪語」もしている。彼の「故郷批判」には「敬虔なクリスチャン」なんてどこにも居なく、自分の「労働習慣」の無さを他者のせいにし(無断欠勤や遅刻早退も)そして自己能力の低さを政府や東部や都市のインテリのせいにし、マスコミは90%以上「デマ」を流していると信じ、わかりきっている「客観的事実」すら認めようとせず、自分の「信じる事実」しか信じず、すべての世界は「貧乏な白人」に対する「陰謀」に満ち、黒人や少数人種が連邦政府をコントロールして彼らの都合の良い政策しか実現させないと信じ、ているという。
 これは「悪質な冗談」か単なる「デマゴギィー」かと私は今まで思っていたが、どうもこの白人の「ヒルビリー」達は高確率で信じていると記載されていたのには驚いた。要は見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞かないという「大衆の病理」がそのまま出ているのだろう。だとすると今では科学的とされる「進化論」が米国では事実ではなく聖書に記載されている文言と並列に教科書に乗せられているし教えられてもいることは自然の帰結かと思われた。
 以前新聞で「米国独立宣言書」の題字を隠して田舎の白人たちに読ませたところ高確率で「共産主義者の宣伝文章」と返答してい記事を読んだことがあるがやはり推して知るべしなのだろう。
 我々はあまりに米国の都市部での「白人層」のイメージでそれが標準的な米国人と思っていたがこれは大きな誤りであるという事だ、著者はなぜデマゴギィーの塊でもある「トランプ政権」が誕生し保持し続ける原因をこの「熱狂的な白人のヒルビリー」に求めている。
 つまりトランプは民衆の「粗野」な言葉で語りかけ、根拠がなくてもあるいは論破されても繰り返しツイッターで直接国民に呼びかけ「貧乏で低学歴で理解に劣る白人たち」に簡単なフレーズの繰り返しのみで「大衆がこうであるはずだ」という思い込みに対し「溜飲」を下げる目的で話を組み立てているとも言っている。
 むしろトランプが大衆の現実的利益(オバマ政権時の健康保険の導入等)をないがしろにしているという事もデマのレトリックで拡散させている部分がある。(驚くべきことだがこの健康保険制度は米国民の一人一人にマイクロチップを埋め込むための制度というデマというか虚妄だが)またこれらのことがかなりのプアホワイト達に浸透してもいるようだ。
 著者はこれらの問題の根底には底辺の白人たちの自己自身の努力の放棄に問題があるとしている。またおそらく抜本的解決の方法は「わからない」と正直に告白もしている。しかしこれらの諸問題はいずれ「底辺の白人たちに」戻ってくるという事は確実のようだ。
 そういう日本もこの現在の「底辺白人」と同じ現象が起きてはしまいか。一切の問題を外国人のせいにしたり、はたまた諸外国人から「日本人を持ち上げる」番組が目白押しで、ひしゃげた「優越感」でいい気になっていたり、暴言とデマをまき散らしながらも石原某都知事が4回も次点との差を100万票差で当選してたり。要は各国の問題は多少の時間差をもって同時多発的に発生するという事なのだろう。その意味では我々は個人と言えども好むと好まざるとに係らずに「世界性」の中で生きているという事なのだろうと思う。
 蛇足だがこの間西部邁が自殺した。彼は「大衆自体の持つ病理」の解決方法論として「保守リベラル」のスタンスを持った。彼は大衆の持つ「無責任さ」を感じそのストッパーとして「保守」を任じたのかと思う。日本全体の極右化を彼はかって投票に行かなかった大衆が「投票行動」を行った結果だと論じていた。大衆の持つアナーキー性、理解力の低さ、極端な振幅性、その原動力たる「無責任性」ここに彼は「病理」を見たようだ。しかしこの解決方法は誰も知らないことも事実だろうな。以上



[8] カズオ イシグロノーベル賞受賞について。

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年10月20日(金)15時51分30秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 私はとにかく「日の名残り」が特に印象深かった。これは映画化もされていて主演がアンソニィーホプキンズ?だと思ったが。
 そしたら本日の東京新聞朝刊に皇后美智子妃と記者団の対話会にてカズオイシグロのこの作品(「日の名残り」のことが)強く印象に残っているとの話でした。もちろんいつ頃読んだのかは知りませんが。正直「へー」と思いこのような作品も読むんだと思った次第です。その内再度TVで放送されるのかなと思いますが。以上



[7] カズオ・イシグロ

投稿者: アマノ 投稿日:2017年10月20日(金)01時39分1秒 202-215-153-56.tokyo.ap.gmo-isp.jp  返信

カズオ・イシグロがノーベル賞とは正直、ボブ・ディランより驚きました。個人的にはとても好きな作家ですが、作品数は決して多くないし、作風もそれぞれ違う。しかも、全てが日本語に翻訳されている(はず)。受賞することがあるにしても、もう少し先だと思ってました。

カズオ・イシグロは数年前にトムロさんが『日の名残り』を課題候補に挙げていました。その時は、結局別の本になったのですが、いずれ誰かが出すだろう~と思っていたら、その後全然挙がってきませんね。

『日の名残り』は名作との声も高いですが、私個人としては、

『浮世の画家』(第二次大戦下の日本の描写がまさに虚構で、P.K.ディックとの類似性さえ感じる)
『充たされざる者』(カフカの『城』的な居心地の悪さ。ただしちょっと長い)
『わたしを離さないで』(ネタバレ注意的な作品なので未読の方は読んで下さい)

の三作それぞれに独特の空気感があり、とてもいいと思っています。
いずれ、なにか出来ればいいな、と。



[6] 「江戸、明治、百姓たちの山争い裁判」渡辺尚志著、草思社刊を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 8月31日(木)23時54分15秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  返信

 所感
 久々に「小説」を離れていくつかの新聞社の書評の中から目に留まり読んでみた。
 巻頭に「江戸、明治」と表題があり興味をひかれた。この論点は要は「土地所有」の問題である。欧米の近代以降は基本的に「私的個人の土地の占有」が基本となりこれがスミスの言うところの市場経済を軸に世界性を持ち現在隅々まで武力を背景にして浸透していったわけだが。
 今現在も日本人は欧米人のような徹頭徹尾「私的占有」になっているのだろうかという疑問を持っていた。古代日本の土地所有の形態を「鎌倉幕府」が決めた「関東御成敗式目」(貞永式目)を基礎に欧米の土地の「私的占有」の萌芽が見られるとされていた。確かにそこには権利義務関係、時効の問題、土地の占有関係にてコモンロー的な法関係が散見はされる。
 そこにおいて決定的に異なるのは「土地」の私的占有というより地上に生えている樹林も含めた植栽一切の「権利義務関係」が中核にてその下の「地べた」はさほど「重要な問題」とはなっていないようだ。もちろん「地べた」とその上に生える「植栽一切」は切断はできないものの別の次元の問題であるようだ。ここに隠れた「アジア的生産様式」の重要な問題があるように思えるし、この本のテーマもその辺を問題にしている。
 現在日本にも「入会権」という「権利」が法に明記されている。近代化が進むと薄れては来ているが日本人の土地所有感に時々今でも「頭」をもたげてくる。
 コモンローの世界では土地の所有は地べたそのものの「所有」でありカルバン派の新大陸開拓者たちはインデアンから正式に土地を買い取った後所有権を明確にするため計測後「杭」を打つことから始めた。ここでインデアンとの小競り合いが始まったようだ。
 もともとインデアンたちは土地の「私的占有」という「概念」がない。「遊牧民」はその概念を持ちえない。「遊牧民」と「農耕民」の小競り合いにも似た問題が出たのだろうと思える。
 問題はその「農耕民」の中ですら欧米が世界を席巻する以前「私的占有」は少数派でしかなかったようだ。種をまいたり植栽を育てたりした権利はそれを行った人物たちの「所有物」であることは太古の昔からあるしその成果は昔より厳然として守られてきている。しかし地べたの「占有」は結構近代以降に成立した「権利」であるようだ。
 日本において山林は共同体的所有が多く江戸期においては各藩の藩主の所有となっていた。しかしその所有権もほとんどが杉、ヒノキ、等の建築資材にて下草、雑木、等においてはそこにおいて所有権とは別の「領有」する惣村の権利でありいくら大名や代官の権力が強力でも「侵略」することはできず、それが現在「入会権」として定着しているよう。
 これは田畑の生産高の基礎的な部分をこの入会権があるため「保障」されているからに他ならない。肥料はもとより農耕における資材一切がこの山林における「領有権」としての「入会地」の核心となっている。ここにおいては「誰の土地か」という問題は「重要」の事では全くない。
 この本の掘り込みの深さは単に地方における「上下関係」の問題ではなく「水平関係」つまり他の「惣村」との関係が最もシビアに描かれているという事だ。この「水平関係」のゴタゴタは時として「暴力沙汰」を引き起こす。同じ百姓どうして隣村と角突き合わせることが多く出てくる。むしろこの隣村との「騒動」の方が圧倒的に多いのである。ここにはむき出しの「共同体のエゴイズム」が前面に出る。
 そしてここでの駆け引きが領主や代官を巻き込んだ「訴訟合戦」となる。むしろこのために惣村では熱心に「読み書きそろばん」が奨励され村のインテリ階層を代表する名主・庄屋層がこぞってこの「裁判闘争勝利」のためトレーニングに励むという落ちになる。
 またこの「入会権」だがあくまでも「惣村」としての権利であり個人所有ではないことが重要となる。
 雑文となりましたが興味が有れば一読を。以上



[5] 年末番外

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 6月25日(日)02時20分55秒 183-177-184-121.tokyo.ap.gmo-isp.jp  返信

コバヤシさんからカフカ『城』が……
これは、私も二、三年ほど前にあげてました。



[4] 推薦図書

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 5月 1日(月)09時06分1秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  返信

所感「バラード病」が出たら今度はj・オーウェル著の「動物農場」か「1984」なんかが類似の本でありますが。以上



[3] Re: 番外での推薦図書 - トムロ/転記

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 4月23日(日)10時45分11秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  返信

「猫城記」サンリオSF文庫刊は、絶版ですが、つい最近(まさにこの4月)Kindle版のみ復活しています。



[2] 番外での推薦図書 - トムロ/転記

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 4月23日(日)02時09分29秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  返信

 所感
 以前台湾文学が出ましたが、今回は中国文学の奇才である「老舎」の作品から、「駱駝祥子」(ラクダノシャンと読みます)岩波文庫刊、「猫城記」サンリオSF文庫刊(これ絶版になっている可能性高いが)はどうでしょうか?
 「老舎」は中国の文化大革命時に悲劇的な自殺を遂げた人物です。以上提案がてらに。



[1] 年末番外

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 4月 2日(日)02時56分14秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  返信

『掌の小説』川端康成


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