読書会@Arcadia-2

アルカディア読書会、ネタバレ専用?掲示版です。読了した課題図書についての感想を思い切り書いてください(笑)。 読了していない人はうっかり見ないように注意しましょう。



カテゴリ:[ 読書/書評 ]


123件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[149] 「ペスト」再読

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年 6月23日(土)22時21分4秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この手の本は確か若いころ高校時代あたりに背伸びして読んだ記憶があります。
 当時はサルトルの「実存主義」が大流行にて、お茶の水界隈で歩いている若い女学生たちのブックバンドの表はこの「実存主義とは何か」という白水社刊の単行本でした。
 同時に、やはり小説については平行にカミュがベストセラーでした。「異邦人」(久保田早紀の歌もあったが)「シシホースの神話」も読まれ更にはマルクス主義を折衷した「マル存主義」なんぞも流行った記憶があります。18歳位でしたが読んでみて正直よくわかりませんでした。ただ「わからない」と言うと同じ女子高生に持てず、馬鹿にされるのではという「恐怖心」から語録風にピックアップして御茶ノ水駅近くの「月光荘」や「レモン」「あかね壺」当たりの喫茶店で同級の女子高生に「解説」した記憶があります。
 50年ぶりくらいに再読したという事になります。巻末の「ペスト菌は・・消滅もしない・・部屋や穴倉に‥辛抱強く待ち続け・・いつか人間に不幸と教訓をもたらすために差し向ける日が来るであろう」という文言を「ナチスとファシズムの復活」と読み解いていたのを思い出しただけであった。
 骨子は信仰の是非、献身性の原動力の課題等を自己の「存在意義」と対応させた作品で有ったのだが今は何となく「手垢にまみれ」色あせたような気がした。逆にそのような意味を問いかけること自体「流行らなく」なったのかもしれない。
 今はやりの物とは「民族国家に対する忠誠心」というナショナリズムなのだろうか。
 以上寸評までに。その意味で夏の「悲しみに抗して」とこの作品は共通しているようだ。




[145] 「悪童日記」を読んで

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年 4月 3日(火)21時56分33秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この小説終「僕たち」という複数形で書き連ねている。設定が双生児という事なのでそのような語りにはなってはいるのだが一番最後を除いて単数でも「充分」なのだ。
 フィクションとはいえ子供達だけで(双生児のため)このようなこのような「冷徹」な行為ができるものなのだろうかと思える。また逆にここが「面白い」ともいえる。
 第1次大戦敗戦によりオーストリー・ハンガリィー2重帝国が崩壊し、600年間中欧を支配したハプスブルグ家の支配も消し飛びその後何回か「支配層」が入れ替わった地で2次大戦中は一時ナチスの支配からさらにソビエトの「解放」という支配を受ける。
 その途中でユダヤ人の強制連行も垣間見、重要な歴史的「イベント」が次から次へと出現するのでその題目が大体見当がつき「面白い」限りであった。
 この地は1次2次の大戦では共に「枢軸国」側につき負け戦しか経験していない。特にハンガリア(この主人公たちはハンガリア人のようであるがそうとも言えない。何しろドイツ人やマジャール人、ロシア人、チェコスロバキア人そしてユダヤ人等が混在化して居住している)は積極的にナチスに加担し武装親衛隊を強制収容所やスターリングラード攻防戦に派兵して重要な片棒を担いでいる。そのため1945年の赤軍進駐の際はかなり過酷な扱いを受ける。
 その激動の中でかわいげのない、こしゃまっくれた「僕たち」が「手練手管」を使い生き延びていく様をむしろ感情をこめないで「たんたん」と描いているわけだ。要は一切大人を信用しないという「ポリシー」を持った「僕たちが」肉親を含めた大人たちの「微妙な」利害関係の隙間を「利用」して立ち回るのは一種の「サスペンス」なのではと思ってしまうのは私だけなのだろうか?
 以外さに注目するとなかなか手の込み入った作品と思えた。以上

PS 注 マジャール人とはハンガリア人のことでして中欧に大昔進駐してきたアッチラ大王指揮下のアジア系民族、ハンガリィーとは「フン族」の事と聞いてはいたがよくわからず。以上



[143] 『耳ラッパ』が示唆するもの

投稿者: コバヤシ 投稿日:2018年 3月29日(木)03時39分52秒 sp49-98-173-145.msd.spmode.ne.jp  通報   返信・引用

 この度は書籍の入手についてお手数をおかけし大変申し訳ありません。また内容についても、その読解にご苦労をかけた部分もあるようです。誠に恐縮です。私にも、ある程度はそうした懸念がなかったわけではありません。

 しかし、私自身にとって、言語で組み立てられた芸術として破格の面白さがあるだけでなく、この作品が問いかける問題は現代、あるいは正に〈現在〉において、発表当時以上にその重要性を増していると信じられたために選ばせていただきました。詳しくは読書会で申し上げると致しまして、この作品が示唆する問題の一部を列挙させていただきたいと思います。読みの参考にしていただければ幸いです。

①老いについて:ここでは〈老い〉は決して否定的な現象ではありません。体力の衰えや忘却などがむしろ世界の新たな地平を開く契機となっている。高齢化の問題が取りざたされる今、赤瀬川原平が提唱した〈老人力〉を称揚する先駆的な作品としても魅力的ではないでしょうか。

②疑似体験:作品を読む者は〈痴呆〉や〈統合失調〉がもたらす世界の中に投げ込まれます。齟齬をきたしながらも成立している日常を読者はつかの間ながら“生きる”。そうした状況にある人や、やがて自身も見舞われるかもしれない〈異世界〉を理解する手がかりを得られるのではないでしょうか。

③境界の曖昧さ:登場する老婆たちは絶望の中に決して凝固することなく、無邪気かつ貪欲に生活を楽しみ、若々しく〈政治運動〉までも行います。こうした様子を読むうちに、老いと若さ、狂気と理性、正常と異常、過去と未来、善と悪など様々な概念の境目が曖昧になってゆく。それらの境界がもたらす区別(差別)に潜む〈擬制〉が暴かれる。端的に言い換えれば、おおらかに日々と向き合うヒントが隠されているのではないでしょうか。

 男性の、理性的な視点から描かれた『日の名残り』における〈老い〉と比較するのも面白いかもしれません。

④芸術の効用:作品の中で、老婆たちがartの力を借りて生活に彩りを与えたり、苦境から脱出を図る様子は、書き手であるL.キャリントンの実人生と重なります。
 彼女は、恋人でやがて夫となったエルンストのナチスによる逮捕、さらに複数の軍人による自身への性的暴行などによって精神の安定を失い精神病院への入院にまで至ります。絵画や文学など、数々の作品の製作はそうした苦境から彼女を救うものでもありました。artと深く関わる〈行為〉が時に命を救う力となることが示されていると思います。

⑤非・理性や幼児性、あるいは前・近代性が横溢するこの作品は、神話や民話、伝説が発生する瞬間に立ち会っているかのような感覚を楽しめるのではないでしょうか。キリスト教や各種神話も様々に“引用”されますが、彼女ならではの特殊な“酵素”によって分解=解体され、それら神話・伝説の起源における混沌がもたらす絢爛、高揚が再現されているように感じます。

 ここまで、作品を読む5つの観点を挙げさせていただきました。

 なお、彼女の実人生の過酷な一面については『恐怖の館』に収められた『ダウン・ビロウ』で詳しく読むことが出来ます。これを読むと、『耳ラッパ』がいわゆる想像力のみの所産ではなく、実体験に根ざした〈手記〉のような性質を含むことがわかります。作品としても面白く、あるいは『耳ラッパ』よりもこちらを読み易く感じる方もいるかもしれません。

 また、セシュエーの編集になる『分裂病少女の手記』(みすず書房)は狂気と理性の境界、また芸術作品の発生する〈精神の場所〉について考える上で示唆的な書物で、キャリントンの作品を理解する拠り所にもなると思います。

 以上、いささかでも参考になれば幸いです。



[139] (無題)

投稿者: モモセ 投稿日:2018年 2月22日(木)19時21分30秒 FL1-220-144-176-201.tky.mesh.ad.jp  通報   返信・引用

磯崎(慶)一郎 ではなく正しくは磯崎 憲一郎でした。失礼いたしました。



[138] 磯崎慶一郎について少しだけ・・・

投稿者: モモセ 投稿日:2018年 2月22日(木)18時52分28秒 FL1-220-144-176-201.tky.mesh.ad.jp  通報   返信・引用

通常サスペンスと言えば、物語上にある豊富な伏線に向けられた緊張感を指すと思いますが、私が磯崎慶一郎の小説を読み始めてから気付かされるようになったのは、文章自体に張る緊張感であるということでした。磯崎慶一郎、本人の発言からも、「僕はたぶん、文章と文章の関係性みたいなものをずっと考えてきたのだと思います。意味なんて二の次で、この文の次にどういう文が続いたら面白い感じがするか、僕が文章を書くにあたって意識していたことはそれだけじゃないかな。そうした組み合わせで文章って読めちゃうんですよね」と言っています。とにかく私も磯崎慶一郎の小説を、この文章の次にはどのような文章が書かれているのだろうかというサスペンスの快楽を恐らく無意識のうちに感じ、読んでいたのだと思います。
 より振り返れば、当初、私が松浦寿輝の詩、小説に魅せられた経緯も文章におけるサスペンスが根底にあるのであると思っています。私がこれまで、松浦寿輝も含め読書会にて取り上げてきた、阿部和重、古井由吉、金城一紀も文章におけるサスペンスが張っていたのではないかと思います。あるいは、蓮實重彦の『伯爵夫人』が三島由紀夫賞を受賞した理由も文章における巧みな連鎖であると私は思い、事実、蓮實重彦は会見で「もっぱら知的な操作のみによって書かれた作品」と、言っており、『伯爵夫人』の帯文に寄せた磯崎慶一郎の言葉が最もそれを指しているといえます。
 「蓮實重彦が『伯爵夫人』を書いたのではない。言葉が言葉を生み出す連鎖が、即ち゛小説゛が、蓮實重彦に『伯爵夫人』を書かせたのだ。」



[129] 「この世界の片隅に」を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年10月 1日(日)20時03分7秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この映画は単純な「反戦漫画」ではない。
 漫画の描写のそこここに奇妙な「なぞかけ」が仕込まれていてそれが通俗的に読むとおそらく意味不明のものとなってしまう。また軍艦等の描写も細部にわたり終戦直前のものであることがよくわかる。軍港呉近くの高台にて眺めた風景を極めてリアルに描いている。
 また文言も結構逆説的な話法を使用し単純に「戦争ハンターイ」とは言っていないのだ。玉音放送を聞いた「すず」が「最後の一人まで戦うじゃなかったかね」と言い「そんなのは覚悟の上じゃないのか」と言い最後はこんな玉音放送は「納得できない」と言い放ち、さらには「この国から正義が飛び去って行く」とまで言い切っている。これほど「好戦的な」本土決戦を意味している文言は今まで見当たらない。
 これが国民一般のそれも市井のいち国民から出た「言葉なのだ。つまりすずは戦争を(この場合太平洋戦争を)自分の「課題」として遂行しようとしていた証でもある。「暴力で従えとったという事か」と言いつつ(大韓民国旗が描かれていた)「じゃけい暴力に屈するという事か」(この場合おそらく米国の軍事力のこと)そして最後は「知らない間に死にたかった」と泣きじゃくる。中途半端に戦争をやめるのなら「最初からやらない方がよい」との決意でもある。
 私は以前よりなぜ「本土決戦」をやらずに(枢軸国は全て首都決戦まで行った)に無条件降伏したのか。他国にまねのできない4000機にのぼる「特攻攻撃」を行いそれでいて終戦後は「天皇のお言葉」だけで全国がひれ伏し1つのゲリラ戦(坑米戦争)も起きることがなく米軍が「平和裏に進駐」できたのか不思議でならなかった。この落差はいったい何なのか。私はこの問題が左右問わず「日本国と日本人の限界ととらえた。ここでこの作者はおそらく日本で初めての「日本人における戦争の意味」を真剣に問うたと言えよう。
 つまり作者は日本の一市井の人間として本格的に「戦争」という行為を自分のものにしていたものと言える。つまり片腕を失いながらも「戦争遂行」を自己の課題として逃げてはいなかったのである。ついこの間まで「鬼畜米英」と叫んでいたものが(当時の保守党の全てと軍部が)敗戦となると強者の米軍に「すりよる」という事からは一番遠い存在であったという事だ。「東亜の白人支配からの解放」は祖国が負けようと個人としては無関係であり個人としてどう「米軍」と立ち向かうのかという課題から彼女は逃げてはいないという事だ。
 彼女が続編を書く気があればおそらく日本の山岳地帯に立てこもり「坑米ゲリラ戦」を行うストーリィーがあってもおかしくはないと思った。
 更にこれは「部落問題」を底辺に地雷のように敷設しているのに読者は築いただろうか。
 初夜の「笠問答」よりこちらの方が面白いのだが。
 参加できれば若干資料写真を持参するつもりだ。終戦以前よりの軍艦等の写生と呉軍港での座沈した位置などはかなり「マニアック」な描写であった。これは感心した。以上



[128] 灯台守の話の鑑賞の助けになれば

投稿者: Yama 投稿日:2017年 9月11日(月)17時16分43秒 h219-110-67-054.catv02.itscom.jp  通報   返信・引用

Kindle版の英語版には巻末には、著者へのインタビューが載っていました。著者の物語に対する考えがよくわかるインタビューだったので、一部を和訳付きで投稿いたします。

Books speak to other books; they are always in dialogue. Books that we have now affect the way we read books that were written earlier, at any other period, because books are a continual commentary on themselves.

本は他の本に話しかけます。我々が今所有している本は,どんな時代に書かれたものであれ以前に書かれた本を我々が読むときの読み方に影響を与えます。なぜかというと本というものは本についての絶え間ない解説だからです。

Human beings love patterns; they love to see shapes and symmetries. We seem to have a need to impose order on our surroundings, which are generally chaotic and often in themselves seem to lack any continuity, any storyline. For me, though, the telling of stories is not about imposing an order, it’s about revealing an order which is implicit in a situation but perhaps concealed, perhaps well hidden.

人はパターンを好みます。人は形や対称を見たがります。我々は我々の身の回りに秩序を押し付ける欲求を持っています。我々の身の回りは通常無秩序で多くの場合どんな連続性も物語物語ないように思えますが。だけど、私にとっては、話を語ることは秩序を押し付けることではなくその状況の中に暗示されている,ひょっとしたらうまく隠されている秩序を暴き出すことなのです。

‘Art is one way of discovering a genuine and unforced pattern in our lives and in the world around us and that’s why writing can never be formulaic.’

芸術とは我々の日常生活とか我々のまわりの世界にある本物で押し付けではないパターンを発見する方法の一つなのだ。だから、ものを書くということには決まり切った型というものはない。

If you think you know where the story will go, then you’re perhaps directing it too much with your conscious mind.

もしあなたが話がどこに行こうとしているか分かっているのなら,それは多分あなたが意識的に話を導きすぎているからです。

I’m a great believer in working with the unconscious, working with those parts of the self which aren’t immediately accessible to rationale or logic.

私は無意識と,つまり、合理的判断とか論理とはすぐにはなじまない自己の一部と協働することは正しいと大いに思っています。

After all, if art reaches anywhere it reaches underneath the surface of the everyday, it reaches past our logical decisions and reasons and it reaches into another place, which is richer, stranger, perhaps closer to the world of the child than to the world of the adult.

結局、もし芸術が日常の表面の内側にまで達するのであれば、芸術は我々の論理的な判断理性を越えて、別の場所つまりもっと豊かで、もっと奇妙で多分大人の世界より子供の世界に近い場所に届くのです。

I don’t think we grow out of that world; I think we suppress it, ignore it and lose touch with it. Reading, looking at pictures, listening to music, going to the theatre, all of those things allow us to regain contact with the parts of our selves that growing up and living in this crazy, corporate world try to squeeze out.

この世界から成長して出て行くということはありません。我々はこの世界を抑圧し、無視し、この世界との接触を失ってしまうのです。本を読むこと、音楽を聴くこと、劇場に行くこと、など全てが、我々が成長したりこの狂った実業界での生活したりすることことで失くしてしまった自己の一部をもう一度取り戻すことを可能にするのです。

There is no real story, the real story is in the fiction.

本当の話なんてありません。本当の話は作り話です。

I wouldn’t consider writing it, no. Poetry is the thing that matters to me more than anything else. I use it like a caffein;when I am tired I 'll have a shot of poetry.

私を詩を書こうかと考えたことはありません。詩は何よりも大切なものです。私は詩をカフェインのように使います。疲れた時は、詩を一口。

The sentences matter, every word in every sentence is made to matter, it’s not simply about conveying information.

文章話は重要です。全ての文章の全ての言葉が重要であるように書いています。書くということは、単に情報を伝えることなんかではありません。





[126] 少しばかり……

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 7月27日(木)02時38分56秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用 > No.125[元記事へ]

モモセさんが書かれていたので……ちょっとだけ。
「権利」「才能」という用語が気になります……。

蓮實重彦が松浦寿輝詩集に寄せたテキストからの引用――
『「権利」なしに書くものたちが期待するのは、もっぱら「才能」である。であるが故に、そこでは退屈さとめぐりあうことしかないだろう。』

この一文からだけ察するに、「才能」とは技巧を駆使する能力のように映ります。

ついでに「権利」の辞書的な意味――
『ある物事をしてよい、またはしないでよいという資格。』

〝しないでよい〟という資格、というのがミソでしょうか。

たとえば、私のテリトリーである美術に照らし合わせてみます。才能(技巧を駆使する能力)によって描かれる絵画は大衆を魅了しますが、新しいビジョンは切り開きません。才能から逸脱することで、かつて経験しなかったものを見いだすことが出来ます。しかし、才能から逸脱する「権利」を得るためには、充分な才能を備えていなければならない。つまり、才能を使わないという選択ができるのは、才能を持つものだけに与えられる権利、ということでしょうか。

さて、世の中は才能を賛美します。
才能豊かな作品は、美術であれ、音楽であれ、文学であれ、多くの人に心地よく映るでしょう。
しかし、才能を逸脱した作品は、おそらく奇異に映る。そして、才能を有する者があえてそれを駆使しないで作ったものか、才能のない者が苦し紛れに作ったものかは、多くの人に見分けがつかない。才能の先に「権利」があることを知らない者にはわからない……そういうことなのではないのかな、と思うのです。確かに「権利」の存在を知る者にとって、「才能」は想像の範囲を超えることがなく退屈に思うこともあるでしょう。

ここで、モモセさんに反論?します(ゴメンナサイ)
(あくまで「権利」「才能」という用語の解釈の問題なのですが……)
松浦寿輝の〝詩〟については、判断できませんが(私は何度も言うように〝詩〟がよくわからないので)、彼の小説『ものたはむれ』は、(上記のような意味において)才能によって書かれたものに思われます。そして、金城一紀の小説しかり。
私は、才能による作品を必ずしも退屈だとは思いません。むしろ、才能の高みにおいて創作された作品はその姿に調和(あるいは計算された不調和)がありとても魅力的です。しかし、そこに心躍る不安もなく、イライラするどうしようもない歪みもなく、一抹の物足りなさを感じてしまうのです。

以上、いろいろなお話は、読書会で。



[125] 金城一紀著『対話篇』について

投稿者: モモセ 投稿日:2017年 7月20日(木)20時47分53秒 FL1-60-236-46-198.tky.mesh.ad.jp  通報   返信・引用

かつて蓮實重彦は詩人、松浦寿輝の詩を「権利」により書かれたものであると言った。金城一紀の書く小説も、私は「権利」により書かれたものであると解釈している。では、金城一紀のもう一つの成果である、すべてに渡り、原案、脚本を担当したTVドラマ『SP』、『BODER』、『CRISIS』の場合はどうであろうかという問いがある。私自身の考えでは『才能』であると解釈している。

では、小説が『権利』であり原案、脚本作品が『才能』であるといった根拠は何であるのだろうか。金城一紀は周知の通り、シネフィルである。小説作品の中に『映画編』という著作があり、『対話篇』も映画的な技法をふんだんに持ち込んだ著作であるが、これは、誰の目にも明らかな、活字のみで書かれた物語である。しかし、脚本というものも活字で書かれた作品であることに変わりはない。小説作品が活字で書かれた物語であることに終始するのに対し、脚本作品(私は脚本だけでも一つの独立した作品であると思っています)は、脚本に書かれた活字をまさしく映像化する目的の達成のために書かれた作品である。しかし、映像化するにあたり、俳優、監督、といった集団で形成される共同において作業がなされるのであり、原案、脚本を担当する金城一紀もその集団の中の一人である。そのため、一見、「権利」に映るかもしれないが、金城一紀が、シネフィルであるという確固たる証拠が『才能』であると私は思い続けている。

松浦寿輝は以前、『麒麟』という名の同人誌に参加していた。蓮實重彦は、『麒麟』についてこう書いている。どうやら、グループは「才能」によって内部の安定をはかり、個人は「権利」によって安定に逆らい、言葉との関わりをさぐりあてるもののようだ。この蓮實重彦の言葉を借り、金城一紀の存在を飛躍させれば、映像の一員である、金城一紀は『才能』により組織の中で安定をはかっているというのは強引な考えであろうか。



[119] 「ロリータ」再再読

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 2月 9日(木)16時22分17秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この小説に何が描かれているかというと「何もない」ということか。
 スキャンダラスなテーマこそだがこの手の話はごまんとあるしその筋の「エロ小説」の類は結構はるか昔からありそうだ。
 と言ってそれがかっこつけた「ブンガク」というジャンルに「昇格」したから「珍しい」のだという点にもありそうでない。
 一見文章が込み入っていて「何か複雑な仕掛け」を潜ませてもいるのだろうかと「期待」もしたのだけど私のは「解らな」かった。だといって最初に記した様に「何もない」と断言するのも自信がなくなった。何なのだろうかこの読後感は。再度いうが「よくわからない」というのが「正直」なところだ。
 ちなみに余計な知識でありますが日本の「婚姻法」でハンバートがロリータの年齢がもう少し上で「同意」が仮にあったとして「婚姻届け」を役所に提出しても決して「受理」はされないはずだ。これはロリータの年齢の問題ではなく一旦親子関係を法律上形成したら(血のつながりがなくても)いくら籍を抜いても決して「夫婦」にはなれないのであります。その位「ファミリー」というのは「古典的共同体」なのであります。おそらく欧米でも同様だと思います。同居はできますけどね。以上蛇足。


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