読書会@Arcadia-2

アルカディア読書会、ネタバレ専用?掲示版です。読了した課題図書についての感想を思い切り書いてください(笑)。 読了していない人はうっかり見ないように注意しましょう。



カテゴリ:[ 読書/書評 ]


141件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[199] あめぞうのことを知ってほしいです

投稿者: a 投稿日:2020年 8月 4日(火)21時20分5秒 103.216.51.210  通報   返信・引用

下のURLにあめぞうの情報がありますのでそれを見て知ってください
あめぞうさんという方のためにもどうかお願いします
http://resistance333.web.fc2.com/newpage1.htm
http://tiyu.to/1ch_08.html




[187] 「昏き目の暗殺者」を苦労して読んだ

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年11月19日(火)18時53分47秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

「昏き目の暗殺者」 マーガレット・アドウッド著   早川書房刊  2002年発刊
 著者はこの著作にてブッカー章を受章したとのことだが内容がわざとに時系列を入れ替えてもいて読んで大意を把握するのに骨が折れ最後は意味不明のままに終わった部分もある。
 少し饒舌過ぎないのかな?ミステリィー小説でもあるのだが翻訳文では少々「難解」であると感じたのは私だけだろうか。
 むしろ英語の「読解力」がある人の方が文章の言い回しの所に魅力を感じたのではと思っているのだが。わたしはいささか読むのに「苦痛」を感じ正直2度と通読するのは勘弁願いたいと思った作品であった。
  合掌  以上



[185] 「掃除婦のための手引書」を読んでは見たが

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 9月 3日(火)16時32分49秒 118-83-37-124.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 「掃除婦のための手引書」 ルシア・ベルリン著  講談社刊  2019年7月発刊
 読後感であるが妙な「倦怠感」に襲われた。自己自身の不調もあるだろうがむしろこの作品の作為そのものの影響にあるような気がしてならない。
 結論から言うとえたいの知れない「家族と人間」にたいする「絶望感」がこの著者の奥底にあるのだろうか。彼女はそれを自覚しつつ距離を設けて淡々と描いている。
 特に邦語でしか読んではいないので文章上の仕掛け方はよくわからない。米語の直接購読であればその辺が判るのかな。この作品老い先短いわが身にはトンと堪えるのでありました。
 作者長編は書いてはいないのであろうかな?   以上



[176] 「幽霊」を読んでみた。

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2019年 1月22日(火)18時44分54秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
「幽霊」 北杜夫著  新潮文庫刊
 この作品彼の最初の作品のようだ解説を読むと昭和25年ころのもの。とりとめもない「心象風景」が延々とこれでもかというくらい書き連ねていて「物語」風を装って入るがそれでもなくストーリィー性もない。グダグダした文章が続く。少々最初の3分の一位で食傷気味となる。私にとっては「退屈極まりない」作品であった。後付けを読むと「自費出版」にて750部ほど昭和29年に刷り、13部ほど売れたとある。何となく売れなかったのが「解る」。皆はどう思うのだろうか。以上



[175] 「西欧の東」を読んでみて

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年12月28日(金)14時57分32秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 「西欧の東」 ミロスラフ・ペンコフ著 白水社刊  2018年10月発刊
 邦語訳されて非常に新しい本であります。が私はこの著者全く知りませんでした。
 これらの系統で東欧文学史は私が高校生の頃ロシア・東欧文学全集というのが平凡社より出され、それが東欧の埋もれた著者の発掘のきっかけとなったのです。
 東欧文学は19世紀ロシア文学の先人の「偉大さ」のあまり一段低く見られておりました。ポーランド・チェコ・オーストリーと比べてさらにバルカン半島の文学は重要視はされませんでした。この作品を読んでみても正直よくわかりません。
 けど「マケドニア」はピンとくるものがありました。ボケて年を取った妻の私物の中から偶然「日記」を見つけ妻の若かりし頃の恋人と交わした「思い」を再考する過程で自己の心理描写が上手に書けて居るなと思いましたが。
 本人の出自でもある「ブルガリア」?は中世が色濃く残る国の一つであります。オーストリアーハンガリィー2重帝国とオスマントルコ帝国の2大強国に挟まれある時はセルビア正教でまたある時はムスリムでまたカトリック教会とその都度宗教を変え国内は虫食いのように諸民族と諸宗教が入り乱れ現在のユーゴスラビア(南スラブ国という意味)があり現在もなお一層混沌とした状態が中世から面々と続いています。バルカン半島の不安定さはこれを基礎にし強大な国家に飲み込まれない限り「安定」は望めないようです。
 以前ロシア関係の出版社に勤務していた時ポーランド?かどこかの東欧人に話を聞くと東欧を一言で言うと「戦争また戦争そして戦争に尽きる」という言葉が印象的でした。彼らの文学には「戦争」を抜きにしては語れないという事のようです。参考まで。以上     日々犀のごとく歩め。釈迦




[174] 「浮雲」追加

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年12月24日(月)08時53分57秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 お題である「浮雲」について論争中、私がこの作品を「近代日本の小説の先駆的役割」をしたと評価しこの系統は日本演劇の「新派新国劇」につながるのではないかと説明した。
 うろ覚えのためきちんとした「説明」をせずS氏からの指摘で「新国劇等は大正・昭和年間に勃興した」と言われた。私は合点がいかずそのままになったのだがこの新派新国劇というのはいわいる「旧派・國劇」つまりは江戸に流行した「歌舞伎等」の事を指しそれに近代的な(欧化的要素を含む)装いを付けて出発したものである。
 新派は1888年(明治21年)に「壮士芝居」として歌舞伎の中から出、新国劇はご存知生みの親ともいえる澤田正二郎が坪内逍遥会長の文芸協会第2期生(1910年ころか?)として入所し坪内の指導鞭撻を受け設立した新しいタイプの「剣劇集団」でもある。演劇の場合文学と比し少し遅れての「誕生」となったわけである。
 この二つの流れの他に「新劇」という欧米化されたスタイルの劇も出、今はこの「新劇」が演劇と言えばこれを指すような代名詞となっている。しかし現在表面的には「新派・新国劇」はすたれてしまったように見えるが大衆演劇の中ではその底辺を脈々と流れ今に至っている。やはりこれも元をただせば「坪内逍遥」に行きつき「浮雲」との接点が垣間見えてくるのではないのか。  以上   *日々犀のごとく歩め。釈迦



[173] 正月前に気になった本2点への所感

投稿者: 青梅恋次郎 トムロ 投稿日:2018年12月22日(土)13時11分54秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 「もう一つの太平洋戦争」 副題 米陸軍日系二世の語学兵情報員 彩流社刊 JC・マクノートン著
 第2次大戦における米陸軍の日系人の軍事動員は西海岸において住民を「強制収容所」に収容しつつその中より「若者」を米国への「血の忠誠」の証として兵隊として「組織」したことである。
 しかし実際は収容日系人の渦中においても日本に忠誠を誓う部分と米国人として生きていこうとする部分に分かれかなりの「抗争」があったとされている。また戦線に投入される日系米兵の若者たちの大半は欧州戦線に投入されたことも事実である。欧州における第100大隊、第422連隊の「活躍」は映画やドラマにもなっているので知っている御仁も多くいられると思う。そこのおいては他の米国陸軍よりも、獲得した「勲章」の数や戦闘における「死傷者」の確率が異様に高率なのも事実の通りである。
 問題は太平洋戦線における「日系米兵」の実際の「活躍」が実際どのように行われたのかという「資料」が今まであまりないことだった。
 日系米兵のほとんどが前線での「語学兵」として出征していることだ。彼らの能力は英語と日本が「堪能」であることが絶対条件であった。単純に米国育ちの日系2世は英語が堪能であるが必ずしも「日本語」が堪能であるとは限らず一定のレベル以上の2世はごく少数であったようだ。この場合米国籍を持っているのが兵隊として絶対条件であるが、現代でも沢山いる2重国籍の日本人がどうも中核となっているようだ。米国からすると「帰国子女」という事になる。
 米国は出生主義であり日本は親の国籍(特に男親の)により決まることは承知の通りである。米国における移民としての日本人の親は大体が自分の息子(二世のため米国で生まれ米国籍)に高等教育を受けさせたいと願いは母国日本で受けさせ大学等は日本に帰国させ日本の大学等で勉強させた。そのため急遽開戦となると帰れなくなったり逆に里帰りしていてそのまま徴兵となってしまう例が多く男の兄弟で日本・米両国に分かれた「同胞相戦う」事態となった。
 また日本で一旦日本軍として徴兵されその後米国に帰国した際今度は米国陸軍兵として徴用もされた事例もある。そうした履歴の持ち主が太平洋戦線の前線に言わば「諜報戦の戦士」として訓練を受けた後投入されたわけだが。
 当然の事、戦線が入り乱れた場合直接銃火を交える事があるし捕虜後友人や家族と「再会」という悲劇も出てくる。実際の戦闘状況の記載を見ると日系人は「勇敢」に日本軍と戦闘を行い殺傷もしているようだ。日系2世の言語兵の戦死傷の中にかなりの確率で米国軍の「誤射」によるものが結構多いのが驚きである。これは戦線が錯綜している時アジア人の顔をした軍装の物を見れば反射的に引き金を引くように米兵が「訓練」されているゆえんでまある。
 また本来の「諜報活動」で本格的な「貢献」をし「山本連合艦隊長官」撃墜、ニューギニア補給戦における「ダンピール海峡戦」また俗に「海軍乙事件」(戦争遂行における重大な機密漏洩事件)という太平洋戦争
におけるキーポイントになる重大な事例に日系2世語学兵の活躍があったという事は全く知らなかった。

「民主主義の死に方」 副題 二極化する政治が招く独裁への道 新潮社刊 スチーブン・レビッキー著
 この著書は民主主義と独裁(ファシズム)を二項対立の映像で描いているわけではなくむしろこの二項は対立関係ではなく近代社会の根幹でもある「民主主義」がむしろ独裁主義のつまりはファシズムと同根であることを「説明」している。そのくらい「民主主義」なるものの基盤が脆弱でその時の「大衆」の気分によって「変化」するという事だろう。
 著者は民主主義を民主主義たらしめているものは立派な文言や憲法でもなくましてや民主主義制度でもないと言い切る。むしろ「明文化」されている部分ではなく「書かれ、記載され」てはいない部分にあることを強調している。これを一言で言うと「政敵」に対する「寛容さ」という事「表現」している。
 米国が何度も国難に陥り、特に南北戦争にて戦死者だけで60万人(当時の米国の総人口が2600万人であり、この60万人の総計は以後の対メキシコ戦争、ロシア出兵等、第1,2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争全部足した数より多い)を出し以後も戦争の原因となった「黒人の人種問題」は全く現代もケリがついてはいない。これを当時のリンカーンと南部連合の不寛容の軋轢と解釈され、直でいうと独裁の出現は「民主主義」そのものにあるという事だ。
 かっての歴史をひも解くと、ナチズムは史上最高の民主主義的ワイマール共和国から出、日本の軍国主義は大正デモクラシーで、イタリアファシズムはイタリア労働運動を軸としてることは周知の事実だ。一国の民族主義運動は排他的民族主義となり対峙する他の国民国家にも排他的民族運動を誘発する。
 著者は米国のトランプ政権中の熱狂的な支持層であるコアの部分に注目しここに分析の手を加える。つまりは白人で、田舎で、ブルーカラーで、高卒以下でという事になる。元来この部分は俗にいう古典的な「労働者階級」という事にはなるのだろうけどむしろ反民主主義で、反革命でと逆転しているといってもいい。虐げられた人民は時の「偉大なる独裁者」に身をゆだねるといったことか。
 「権力は腐敗し、絶対権力は絶対腐敗する」という名言があるがそれを底辺で支えている「民衆」は「腐敗」しないのであろうか。むしろそのような政権を「熱狂的に」支持するのは「普通の民衆や労働者」なのではないだろうか?この本はその意味にも置いて考えさせられる作品でもある。以上



[171] 向田邦子 「父からの詫び状」について

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年11月26日(月)16時23分8秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 一気の読んでしまいました。
 エッセイストとしての向田氏の文章におけるテンポの良さはなかなかのものでした。根っから「そそっかしさ」を持っているようでそれが万人に愛される秘訣かと思いました。
 あれほどの「美人」で明朗なれば若いころ「引くて数多」だったのだろうと思いました。ネットで見ると本作品の中にそのことが忍ばせてあるとかの記載がありましたが、読んでいてよくわかりませんでした。
 人気絶頂の時「飛行機事故」で故人となってしまいましたが生きておれば更なる面白い作品が期待できたのかと思います。当時橋田壽賀子とTVドラマの脚本で人気を二分していた記憶があります。
両者とも大衆の日常生活におけるたわいもない出来事に意味を見出した脚本家としていい意味で争っていたのかなと思います。以上



[169] 永井荷風の作品2点を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年10月31日(水)20時44分54秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 読書会のお題2点は似たような逍遥小説である。
 「日和下駄」はどこか国木田独歩の「武蔵野」を彷彿とさせる。足の向くまま気の向きままふらふらと徘徊する中での小旅日記である。私は中学が駒込千駄木にありそこまで電車通学をしていた谷中、千駄木、根津、西方、不忍や東大の周りは戦災と関東大震災から不思議と被害は受けず戦前の木造かわらぶきの古い家が低い軒を連ねたまま続いていた。道灌山の上に日暮里駅の南口?があり谷中を通り不忍通り(当時都電があった)から団子坂を上がり森鴎外の住宅(当時は記念図書館となっていた)を抜け上りきったところが母校であった。近所に夏目漱石の家(猫の執筆の時)があり(高校の時犬山市の明治村に移築された)この本を読んでいるとその道すがらを彷彿とさせる。森鴎外の「雁」のルートはそのまま残っていてその通りに歩いたことがある。懐かしい思い出に浸りながら読んだしだい。
 「墨東奇譚」の「玉の井遊郭街」は3月10日の東京大空襲で灰燼に帰し戦後復興したが昭和32年の売春禁止令により吉原大門と共に今は何も残っていない。「墨東奇譚」は途中で一度筆を折っているように読めたが。まあたとえそうであっても長いの優雅な筆使いは味わいがある。但し単語がすでに使われていないものも多くあり注釈がなければ若い人には大変だろうと思う。樋口一葉といい永井荷風といい滑らかな筆使いが彼らの生命なのだろうと思う。
 永井は正真正銘の「反骨の人」であることを認識した。煩雑となりました以上。



[168] 「夜と霧」再考

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2018年10月31日(水)20時15分8秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
「夜と霧」再考と再読について
 読めば読むほど(あえて絶滅収容所のことをなるべくネグっても)何か現実味に欠ける「内容」のような気がしてならない。
 もちろん実際に筆耕したのは戦後であるが妻子を殺されてこのような「たんたん」とした記述ができるのであろうか?インテリだからっ無辜の大衆のように「復讐」だといって騒ぎ立てないのだろうか?逆にそれが彼自身の「売り」なのであろうか?よくわからない「小説」である。
 読書会の中でフランクルが実際「アウシュビッツ絶滅収容所」に居たのは極めて短期間なのではと参加者のT氏から言われた。更に彼は当時としては極めて少数者のインテリ層にあり更には「精神科医」でもあった。当然親衛隊や「カポ」にたいして「カウンセリング」も行ってもいるようだな。するとそこで生き残り術として相手に「よいしょ」もできたはずだし実際やっているようにも思える。彼は「良き人は死んでしまった」とも言っている。これは多分に「自虐的」発言でもあるようだ。その意味でもこれはやはり「小説」のジャンルに入るのではと思ってしまう。
 しかしそのことで彼を責める人物はいないはずだ。何しろ私が彼に位置にいたのなら親衛隊のケツまでなめていたのかもしれない。そうでもしないと生き残れないわけだしそうしたところでかなりの確率で死が保障されている場所なのだからね。生き残ったのは多分に運と「入所時期」なのではないだろうかね。
 彼の言うところの宗教心や「精神心理学的」なスタンスを保持したところでどのみち「死」は直近にいるような気がする。親衛隊はまずもって労働能力(強靭さ)の有無で駅に着いたとき「選別」しているわけだからね。むしろこの本ではフランクルが「記述」しなかったことの方を探した方が面白いのではと思ったがさて。
 PSどちらにしても人間の未来というのは展望があるようにはとても思えない以前誰かのフレーズで「アウシュビッツ以降、詩を語ることは犯罪ですらある」というのを思い出した。
 有史以来殺戮の連鎖は続き今後これ以上のことが起きないとは限らないしすでにおいているかもしれない。ときどき安倍首相が言った「一国平和主義ではだめないです」という国会答弁も私にはそれでも「自国が戦争に巻き込まれるのは勘弁願いたい」と反論するのは「傲慢」なのだろうか。以上


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