左翼の人々に批判の声を届けよう




16件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[16] Re: ありがとうございます。

投稿者: 匿名 投稿日:2016年 2月 5日(金)21時31分1秒 115-179-127-95.hiroshima.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用

 お返事ありがとうございます。拝読いたしました。今回のお返事は、前回下さったお返事を、より詳しく述べられたものと理解しております。お陰様で、ばく様のお考えをより明瞭に理解できたように思います。

 さて、彼らの確信の根拠が本当に特定の理論なのかどうか、今は私は自信がありません。私がそのように思っていたのは新左翼運動からの類推に過ぎなかったからです。もちろん現実は無秩序なもので、ガチガチの理論派から、緩い情緒の連帯でしかない者までさまざまでしょう。そう断った上で、しかし「今日の左翼運動は、新左翼運動の反省に基づき、連帯のために情緒を重視する」というばく様のご説は尤もらしく思われます。実際、そんな難しいことを云々しながら左翼的な主張をしているわけではなさそうな方が多くいらっしゃることを知っています。ただ、私は新左翼運動なるものは活字でしか知りませんし(私はソ連崩壊後に生まれた世代です)、今日の左翼運動も特別な関心を持って観察しているという訳でもございません。よってばく様のご説に確信をもって同意するには、残念ながらまだ経験が不足しております。ご説は非常に尤もらしいと思っておりますが、この点につきましては、今後の観察を通して考えていくことにします。

 最後になりますが、先の投稿の(2)で「他者の人格の尊重」という表現を選んだ理由を、「わかる人とわからない人」の区別、そして私がこだわっている「説得」の問題に関連して述べておきたいと思います。彼らのうちのいくらかは、ツイッターなどで相手をネトウヨと呼び、罵詈を送ります。彼らは恐らく、差別を受けている人、そのような相対的弱者に寄り添っているつもりなのでしょう(実際寄り添っているのだと思います)。しかし多くの場合は彼ら自身が差別を受けているわけではありません。このような意味で当事者でない者が、しかし「社会正義」のために調停、あるいは保護/阻止を目的として介入すること自体は、必ずしも否定されることではないと思います。とはいえ、罵詈はそれが向けられる者を傷付けます。繰り返しますが、差別を受けている当事者が抵抗としてそのような手段をとるならまだ分かります。しかし彼らはそうでない。そこには、ばく様がツイートで言及された「思いやりのレンジ」についての不平等があるように、私には思われるのです。思いやりのレンジの不平等自体は別に良いのですが、しかしその上でそのように人を傷付けることに正当性があるのですか、と思うわけです(目的は手段を正当化しない、という意味でです)。

 私から見ればこのような状況は、「わかる人とわからない人」という(恣意的な思いやりのレンジの影響下にある)区別により、他者の人格を(今は)傷付けてもいいなどという独善から、暴力が生まれているように映ります。そこには、最低限あるべき、他者(相手がどんな人間であろうとも)への敬意が欠如しているように感じられます(こう言ったとき、私もまた一つの道徳的スタンスに立っていることを隠すつもりはありません)。そしてもし敬意があるのなら、まずは罵詈ではなく説得を、と思うのです。先の投稿で、敢えて「他者の人格の尊重」などという議論を呼びそうな表現を選んだのは、こうした感覚によるものです。

 この感覚のもとでは、彼らが説得を重視せず「一派の人間の中の連帯しか頭にない」という状況は、先の投稿で繰り返し述べた独善性の罠が杞憂でないことを意味するように思われます。したがって、彼らの支持の輪が広がらず路線の見直しを考えるようになるよりも、もう少し早い段階で、己のよって立つところのものを省みる時が来てほしいなぁと思う次第です。尤も、ばく様も言及されていたように、ネトウヨ、あるいはネットの「議論」好きの方々に辟易する気持ちは分からないではありませんが。

 ばく様には長く拙い文章を随分と読ませてしまっているので、ばく様が私に何か問われるのでなければ、この辺で私は再び物言わぬ不特定多数の一人に戻ろうと思います(この掲示板へは定期的に見学に来るようにします)。ネットではなかなかお目にかかれない誠実なお返事に、少なからず心が洗われました。お付き合いありがとうございました。




[15] Re: ありがとうございます。

投稿者: ばく 投稿日:2016年 2月 5日(金)08時42分43秒 KD124211228087.ppp-bb.dion.ne.jp  通報   返信・引用

御返事ありがとうございます。各件について、思ったことを書いていきたいと思います。

全体について(私の前提としている観方)
基本的に、現在の左翼運動は新左翼運動の反省に基づいており、その特徴は、
1.多数に支持されることを意識した運動
2.1のために、論理よりも情緒を重視
3.1のために、過激な運動はやらない
などであると考えております。しかし、その結果としての運動の性質は、実は新左翼運動と変わりないんじゃないか、というのが大まかな流れです。
ですから、貴殿の説の「理論」「論理」にそのまま「道徳」などを代入すれば、現状にも当てはまるのだと思います。

(1)、(2)について(現在の左翼運動の「善性」の根拠について)
私の考えにあなたの考えを融合させてみますと、現在の左翼運動は、あらかじめ共有されている「べき」善性を根拠として成り立っているのではないか、という説が立てられます。つまりそれが道徳であったり「人間として当然の感情」であったりするわけですが、これらはもとより共有されている(と彼らは思っている)ため、「独」善に陥る心配はない。だから、逆に言えば他人を説得する必要はなく、人間的な「わかる人」と非人間的な「わからない人」が存在するのみである、と。
この説の場合、説得という行為は、彼らのよって立つ「あらかじめ共有されている」という前提に矛盾するものですから、当然やらない。また、「私は間違っているかもしれない」という疑いなんかありゃしないでしょう。「人間として当然の感情」なのですから。
このように、論理重視だった新左翼運動、その反省として情緒重視となった現在の左翼運動、そのどちらも、異なったメカニズムによって「反論を受け付けない」という特徴を共有しているように感じます。内側からの反論、つまり、独善を防ぐブレーキとして働くべき「持って然るべき筈の躊躇い」も、彼らには存在しないということになります。

(3)について(彼らにとっての、説得という行為の必要性)
上にも書いた通り、理想の実現には多くの他者の協力が不可欠である、という感覚は、彼らが新左翼運動の反省の中で既に掴んでいる感覚だと思います。だからこそ彼らは、説得というプロセスが必要な「論理」ではなく、より直観的にわかる「情緒」を連帯に利用したのだ、とも言えます。
しかし、論理と違って、情緒に正解はありません。それぞれの人間にそれぞれの感じ方があっていいはずで、一方の感覚を「それは間違った感覚だ」と否定するのはもとよりナンセンスです。しかし、そのナンセンスさが、現在の左翼運動には常につきまとっているわけです。
結局それは他者の否定に他ならない。彼らがやっていることは彼らの批判するレイシズムとそう変わりはない。自民族中心主義が道徳の善性に変わっただけのことです。結局、一派の人間を認め、それ以外の人間を否定している。それは、彼らに「道徳の相対性」という感覚が根本的に欠如しているからです。
おそらくこういった経緯から、多数派の支持を得るための方法として、説得という手段はもとより彼らの中にないわけです。彼らは「一生懸命に」「まっしぐらに」理想の実現に向かって頑張っています。しかし、彼らは一派の人間の中の連帯しか頭にない。その人数で足りていると思うからこそ、説得という手段を選ばない。逆に言えば、どうしても支持が広がらない、となれば、方策の見直しの中で、説得重視という方針もでてくる可能性はある、と考えています。



[14] Re: ありがとうございます。

投稿者: 匿名 投稿日:2016年 2月 1日(月)19時55分48秒 115-179-127-95.hiroshima.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用

 お返事ありがとうございます。拝読いたしました。お返事のおかげで段々と私の言い表したいことが整理されてきたので、今一度述べさせて頂きます。先の投稿と重複する内容が多いことを予め申し上げておきます。

 どうやら私が持つ彼らへの違和感は、彼らが他者に対して何かを「命じる」ような局面において意識されます(これから多用する「命じる」という表現は、「…すべき」とか「…すべきでない」とかいう発言を念頭に置いています。責任や義務を割り当てる、という意味での命じるです。もちろん彼らとしては本来的にその責任/義務があるのだという意見表明かもしれませんが、背景を共有しない者からすれば彼らは責任/義務を新たに割り当てようとしていると見ます。ここら辺にも何かヒントがあるようにも思われます)。何かを命じた相手にその正当性を納得させる必要が無いと考えているような振舞いは、私を当惑させます。もちろん実際には、多くの方は何らかの理由を添えます。私が「理論体系の信奉者」と表現した方々は、その理由付けのために特定の理論を援用します。ですが、命じられた者はその理由付けで納得しますか、と問いたくなる場合があります。そもそもその理論は信用できるのですか、その理論から正当性が導かれると言いますがその導出は適切なのですかという風に。先の投稿で述べた「あるべき制約云々」のくだりはこうした疑念の一例です。甚だしい場合、これが疑心にまでなります。その理由付けで命じられた者が納得すると、本当に期待しているのですか。実は納得しなくてもいいと考えているのではないですか。あるいは命じられた義務に従って動いてくれることを、本当は別に願っていないのではないですか、と。

 そして考えたのですが、結局のところ、私は次の思いを吐露したかったようです。

 (1)善きことのため、と他者に何かを強制する場合、その信条が私と共有されるものでなければ、私から見ればそれは独善である。我々は独善が暴力をもたらした例(先の投稿で日本赤軍を引き合いに出したのはこれを指すためでした)を多く知っているし、それが注意深く避けられるべきものであることに概ね異論はないだろう。ではそのためのブレーキ装置として何を用意しているのか、それを知らなければ私は彼らを信用できない。例えばブレーキとして役立つであろう「私は間違っているのかもしれない」という留保を持っているのか(これが先の投稿の前半で申し上げたかったことです)。
 (2)そもそも彼らのいくらかは、他者に何かを命じることの重大さを(私からみて)軽く考えているのではないか(私にとってはここが一番のポイントです)。私がなぜ独善を恐れるか、なぜ他者との合意形成に一定の意義を見出すか。一つの表現として、私は他者の人格を(ある程度)尊重するからだと言いたい。彼らがこのことをいかほど解し、これに共感を覚えるか。例えば他者に何かを命じたとき、同時に説得すること(少なくともそれを真面目に試みること)を義務として引き受けるつもりはあるのか。「あなたも言い返せばいい」ではなく「私は説得しなければならない」として。
 (3)彼らは理想を掲げるが、しかしどこまで真面目にそれを理想としているか疑問のある者もいる。例えば理想を実現するには他者の行動を変える必要があるのに、他者を説得するつもりが無いように見受けられる者である。人が理想らしきものを口にして見せる理由はいくらでも想像できる。例えばそれを正しいと信じているのではなく、「それを正しいと信じる」ことを正しいと信じているだけだったり(そしてそれを表明して見せるだけで義務は果たされる、と)。

 言うまでもありませんが、基本的に彼らが何を思おうと彼らの勝手であり、他者(もっと言えば、私)と関わる局面でない限り上のことはあまり問題ではないです。しかし上のことが確認できない間は、私が彼らを信用する義理もありません。特に(2)で述べた、他者に何かを命じることの重大さについては、ばく様がまとめて下さった「わからない人にはわからなくていい」問題に関連して、私にとっては重要な関心事です。また、ばく様のお返事の中で気づかされたことですが、理論や論理に立脚しているという私の左翼像にやや修正が必要なようです(もちろん左翼は理論や論理を完全に投げ捨てたとは申しておりません)。しかしそうであれば、「ひょっとすると他者は同意してくれないかも知れない」という懸念は、なおのこと持って然るべきものであるように思われます。また長くなってしまいました、すみません。



[13] ありがとうございます。

投稿者: ばく 投稿日:2016年 1月31日(日)01時53分26秒 KD124211228087.ppp-bb.dion.ne.jp  通報   返信・引用

ありがとうございます。ツイッターを見て何か感じ取ってくださったのみならず、このような辺境の地(笑)まで来て書き込んでくださって、大変喜んでおります。

私たちは、対話を通して彼らに何を伝えるべきなのか、ということを考えてみました。

政治に関する議論は、おっしゃる通り、なかなかに断言が難しい議論だと思っています。
現在の左翼の人たちは、政治を論じる難しさを考えて、新左翼運動のような論理重視の運動とは違う方向性にしよう、と思っているのだと思います。しかし、実際には、彼らの運動は「人間として当たり前のこと」や「仲間を思う気持ち」といった、ごく道徳的な感覚のみに基づいている。「断言して、他人に行動を強いる」という点では、論理も道徳もあまり変わらない。結局、もとに戻っちゃったようにも感じます。
私も、あなたと同じように、自分の行動を強いられると、やはり懐疑的になってしまうので、幾度か横槍を入れてみたりしています。ひょっとすると、この「懐疑の精神」が「持って然るべき筈の躊躇い」なのかもしれません。ただし、これは、突き詰めれば何一つ行動できなくなる、という問題点を孕んでいるもので、あまり「善」であるとも言えないのですが。それでも、彼らのように断言を連発するよりはましだとは考えています。

もうひとつ、同じように問題点だと思っているのが、「わからない人にはわからなくていい」という考え方です。あなたの言うように、それでは運動が「内輪のお祭り」にしかならない。
彼らがネトウヨやネットの議論好きな人たちの質問(あるいは攻撃)にあって閉口しているのもわかります。が、やはり質問を受け付けなかったり議論を拒んだりしていては支持者が増えない。いや、正確には、支持者を増やした分だけアンチも増やしてしまっている。この問題は、左翼の皆さんは共通して認識が薄いようです。

この二つの問題点が、おそらく私たちが、対話を通して彼らに伝えるべき問題点なのだと思います。



[12] (無題)

投稿者: 匿名 投稿日:2016年 1月30日(土)13時30分9秒 115-179-127-95.hiroshima.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用

 ばく様はtwitterアカウントのlove_liberalism様と同一の方だと思います。
 現在遡れるツイートを拝読しました。大変興味深かったので、私の思いをここに綴らせて頂きます。尤も、ばく様が既にご承知であるようなことばかりだとはお察しします。

 まず私は思想書などというものに触れたことがなく、いわゆる思想系の知識がございません。初めにこのことを告白しておきます。

 私がお近づきになりたくないなと思う左翼は、理論体系の信奉者として振舞うような者です。彼らは理論を援用し、何かが「正しい」とかこうする「べき」だとか主張します。しかし、かつてのソ連や日本赤軍もまた、理論を立て、それに基づいて行動していたのではなかったのですか。「彼らは失敗したじゃないか、だから」と言いたいのではなく、ある理論の正しさを確信しそれに基づいて行動した結果、何か悲惨なことが起きたという例示のつもりです。もちろんこれは左翼理論特有のことではありません(左翼理論と言ったときに、自分が言及しているそれについて漠然とした観念しか持っていないことも告白します)。しかし彼らもまたその例に加わらないと言えるでしょうか。

 彼らは、例えば数学や自然科学が扱うようなものと比べ、複雑で、曖昧で、混沌とした(ある意味、より現実的な)対象について語っているように見受けられます。そのような対象について断定的に語るには、語り方や内容について何か制約があると考えるのは尤もなことだと思います。彼らがまるでその理論の正しさを確信し、それを援用して断定的な語り口で何かを主張するとき、その主張はあるべき制約を逸脱してはいないのか?と私は警戒します。

 特にこの警戒心は、その主張をもし認めるならば私も何か行動を起こすべきであることが帰結するような場合に関心事になります。

 繰り返しますが、私はそのような理論を学んだことがありません。したがって上のような態度に反知性主義的側面がある(少なくともそのように映り得る)ことを否定しません。しかし、世の中には神様が居ると信じ、主張する人がいます。その方の信じる教義が説く道徳を私も実践すべしと主張されたとき、私が自分でその方の援用した神学理論をわざわざ学ぶ義理はありません。それは単にリソース配分の問題です。さらに言えば理論そのものと、「その帰結である」と言われている主張との間には論理的なギャップがあります。

 このように述べると「じゃあ無知が最強じゃないか」と思われるのは承知の上ですが、実際無知は最強です(説得したいのならば)。しかし私が信奉者と表現する者の中には、本当に説得をするつもりがあるのか疑わしい者もいます。彼の主張が実現されるには他者の行動を変えなければならないのに、その他者を説得するためにどれほどの事をしたのでしょう。あるいはどれほど効率的な方法をとったのでしょう。…説得することを重視しないような人とは、どのような人で、どのような動機に基づく主張でしょう。中には、他者の行動を変えるのに他者を説得する必要はない(!)と考える者もいます。なるほど、そのような場合もあるかもしれません。それがいつかについて合意できるか分かりませんが。

私が「内輪のお祭り」と思わず揶揄したくなるのは、このような者たちの運動です。しかし私はネット上に限らずこうしたややこしいことを普段議論しません。様々な言葉の混乱と悪意のために、疲弊するばかりの論争が日々繰り広げられている事を知っているからです。それらを避けるだけの能力が自分にあるとも思えません。だからこのような文章も殆ど初めてです。持って然るべきの筈の躊躇いとでも申しましょうか、そのようなものがばく様のツイートには見受けられたので、共感のあまりここに私の思いを綴ってみた次第です。長文乱文失礼しました。



[11] Re: 参考記事

投稿者: ばく 投稿日:2015年10月24日(土)12時56分50秒 KD124211228087.ppp-bb.dion.ne.jp  通報   返信・引用

> この記事が、私の感じているもやもやを解説してくれていました
> ttp://blogos.com/article/138501/
>

リンク先の記事見てきました。「国際NGO職員が国会前デモに参加して感じた「違和感」とは」という記事ですね。
この記事の中でも、運動をする人々の対話する姿勢のなさについて言及されていますが、私も同感です。
2009年の打倒というと、民主党による政権交代を指しているのだと思いますが、それはどのようにして成し遂げられたのだとお考えですか?



[10] 参考記事

投稿者: 投稿日:2015年10月21日(水)09時51分13秒 ntsitm302020.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

この記事が、私の感じているもやもやを解説してくれていました
ttp://blogos.com/article/138501/



[9] 外国人のデモ

投稿者: 投稿日:2015年10月21日(水)09時02分48秒 ntsitm302020.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

反安保デモは、政治デモであることは疑いようもありませんが
(おそらく意図的に)レイシズムへのデモと混同することで
外国人政治デモへの参加を事実上容認しているのもいやらしい



[8] 人は轍を踏む

投稿者: 投稿日:2015年10月21日(水)08時54分25秒 ntsitm302020.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

2009年、とりあえず打倒のとてもいい結果があったように思いますよね、それから何も学ばないのでしょうか。

在特会は構成員やその運動のほとんどが救いようのない悪意で構成されていますが、反対の左派には、一見まともなリベラリストから在特会ばりの下品なメンバーまで、混然一体となっていることに強い違和感を感じています

にもかかわらず、左派の中の穏健派に分類されるような人からそれに自粛を求めるような、自浄化作用が全く働いていないように見えるので、傍観者としてみているとすっきりしないものを感じます



[7] Re: 何を主として批判すべきか

投稿者: ばく 投稿日:2015年10月21日(水)01時17分55秒 KD124211228087.ppp-bb.dion.ne.jp  通報   返信・引用

匿名で大丈夫です。書き込みありがとうございます。

主義より仲良しグループの拡大、そうだと思います。
「とりあえず安倍打倒」と、焦点を手前に置くことで、細かい主義の違いには目をつぶって運動しているらしいです。SEALDsの言い分的には。(それゆえ、「打倒はするけどそのあとどうしたら良いのかしら」という状態で運動が進むことには不安がありますよね。)

リベラリズムと標榜する人々が新左翼運動の思考から抜け切れていない、という矛盾をつくというアイデアはかなり有効だと思います。
彼らが外部からの批判を受け付けないのはなぜなのでしょうね。私も(特に若い層の運動家たちと)「対話が成り立たない」ことを大変に問題視しています。


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