読書会@Arcadia-2

アルカディア読書会、ネタバレ専用?掲示版です。読了した課題図書についての感想を思い切り書いてください(笑)。 読了していない人はうっかり見ないように注意しましょう。



カテゴリ:[ 読書/書評 ]


118件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[129] 「この世界の片隅に」を読んで

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年10月 1日(日)20時03分7秒 111-90-81-96.nkno.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この映画は単純な「反戦漫画」ではない。
 漫画の描写のそこここに奇妙な「なぞかけ」が仕込まれていてそれが通俗的に読むとおそらく意味不明のものとなってしまう。また軍艦等の描写も細部にわたり終戦直前のものであることがよくわかる。軍港呉近くの高台にて眺めた風景を極めてリアルに描いている。
 また文言も結構逆説的な話法を使用し単純に「戦争ハンターイ」とは言っていないのだ。玉音放送を聞いた「すず」が「最後の一人まで戦うじゃなかったかね」と言い「そんなのは覚悟の上じゃないのか」と言い最後はこんな玉音放送は「納得できない」と言い放ち、さらには「この国から正義が飛び去って行く」とまで言い切っている。これほど「好戦的な」本土決戦を意味している文言は今まで見当たらない。
 これが国民一般のそれも市井のいち国民から出た「言葉なのだ。つまりすずは戦争を(この場合太平洋戦争を)自分の「課題」として遂行しようとしていた証でもある。「暴力で従えとったという事か」と言いつつ(大韓民国旗が描かれていた)「じゃけい暴力に屈するという事か」(この場合おそらく米国の軍事力のこと)そして最後は「知らない間に死にたかった」と泣きじゃくる。中途半端に戦争をやめるのなら「最初からやらない方がよい」との決意でもある。
 私は以前よりなぜ「本土決戦」をやらずに(枢軸国は全て首都決戦まで行った)に無条件降伏したのか。他国にまねのできない4000機にのぼる「特攻攻撃」を行いそれでいて終戦後は「天皇のお言葉」だけで全国がひれ伏し1つのゲリラ戦(坑米戦争)も起きることがなく米軍が「平和裏に進駐」できたのか不思議でならなかった。この落差はいったい何なのか。私はこの問題が左右問わず「日本国と日本人の限界ととらえた。ここでこの作者はおそらく日本で初めての「日本人における戦争の意味」を真剣に問うたと言えよう。
 つまり作者は日本の一市井の人間として本格的に「戦争」という行為を自分のものにしていたものと言える。つまり片腕を失いながらも「戦争遂行」を自己の課題として逃げてはいなかったのである。ついこの間まで「鬼畜米英」と叫んでいたものが(当時の保守党の全てと軍部が)敗戦となると強者の米軍に「すりよる」という事からは一番遠い存在であったという事だ。「東亜の白人支配からの解放」は祖国が負けようと個人としては無関係であり個人としてどう「米軍」と立ち向かうのかという課題から彼女は逃げてはいないという事だ。
 彼女が続編を書く気があればおそらく日本の山岳地帯に立てこもり「坑米ゲリラ戦」を行うストーリィーがあってもおかしくはないと思った。
 更にこれは「部落問題」を底辺に地雷のように敷設しているのに読者は築いただろうか。
 初夜の「笠問答」よりこちらの方が面白いのだが。
 参加できれば若干資料写真を持参するつもりだ。終戦以前よりの軍艦等の写生と呉軍港での座沈した位置などはかなり「マニアック」な描写であった。これは感心した。以上




[128] 灯台守の話の鑑賞の助けになれば

投稿者: Yama 投稿日:2017年 9月11日(月)17時16分43秒 h219-110-67-054.catv02.itscom.jp  通報   返信・引用

Kindle版の英語版には巻末には、著者へのインタビューが載っていました。著者の物語に対する考えがよくわかるインタビューだったので、一部を和訳付きで投稿いたします。

Books speak to other books; they are always in dialogue. Books that we have now affect the way we read books that were written earlier, at any other period, because books are a continual commentary on themselves.

本は他の本に話しかけます。我々が今所有している本は,どんな時代に書かれたものであれ以前に書かれた本を我々が読むときの読み方に影響を与えます。なぜかというと本というものは本についての絶え間ない解説だからです。

Human beings love patterns; they love to see shapes and symmetries. We seem to have a need to impose order on our surroundings, which are generally chaotic and often in themselves seem to lack any continuity, any storyline. For me, though, the telling of stories is not about imposing an order, it’s about revealing an order which is implicit in a situation but perhaps concealed, perhaps well hidden.

人はパターンを好みます。人は形や対称を見たがります。我々は我々の身の回りに秩序を押し付ける欲求を持っています。我々の身の回りは通常無秩序で多くの場合どんな連続性も物語物語ないように思えますが。だけど、私にとっては、話を語ることは秩序を押し付けることではなくその状況の中に暗示されている,ひょっとしたらうまく隠されている秩序を暴き出すことなのです。

‘Art is one way of discovering a genuine and unforced pattern in our lives and in the world around us and that’s why writing can never be formulaic.’

芸術とは我々の日常生活とか我々のまわりの世界にある本物で押し付けではないパターンを発見する方法の一つなのだ。だから、ものを書くということには決まり切った型というものはない。

If you think you know where the story will go, then you’re perhaps directing it too much with your conscious mind.

もしあなたが話がどこに行こうとしているか分かっているのなら,それは多分あなたが意識的に話を導きすぎているからです。

I’m a great believer in working with the unconscious, working with those parts of the self which aren’t immediately accessible to rationale or logic.

私は無意識と,つまり、合理的判断とか論理とはすぐにはなじまない自己の一部と協働することは正しいと大いに思っています。

After all, if art reaches anywhere it reaches underneath the surface of the everyday, it reaches past our logical decisions and reasons and it reaches into another place, which is richer, stranger, perhaps closer to the world of the child than to the world of the adult.

結局、もし芸術が日常の表面の内側にまで達するのであれば、芸術は我々の論理的な判断理性を越えて、別の場所つまりもっと豊かで、もっと奇妙で多分大人の世界より子供の世界に近い場所に届くのです。

I don’t think we grow out of that world; I think we suppress it, ignore it and lose touch with it. Reading, looking at pictures, listening to music, going to the theatre, all of those things allow us to regain contact with the parts of our selves that growing up and living in this crazy, corporate world try to squeeze out.

この世界から成長して出て行くということはありません。我々はこの世界を抑圧し、無視し、この世界との接触を失ってしまうのです。本を読むこと、音楽を聴くこと、劇場に行くこと、など全てが、我々が成長したりこの狂った実業界での生活したりすることことで失くしてしまった自己の一部をもう一度取り戻すことを可能にするのです。

There is no real story, the real story is in the fiction.

本当の話なんてありません。本当の話は作り話です。

I wouldn’t consider writing it, no. Poetry is the thing that matters to me more than anything else. I use it like a caffein;when I am tired I 'll have a shot of poetry.

私を詩を書こうかと考えたことはありません。詩は何よりも大切なものです。私は詩をカフェインのように使います。疲れた時は、詩を一口。

The sentences matter, every word in every sentence is made to matter, it’s not simply about conveying information.

文章話は重要です。全ての文章の全ての言葉が重要であるように書いています。書くということは、単に情報を伝えることなんかではありません。





[126] 少しばかり……

投稿者: アマノ 投稿日:2017年 7月27日(木)02時38分56秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用 > No.125[元記事へ]

モモセさんが書かれていたので……ちょっとだけ。
「権利」「才能」という用語が気になります……。

蓮實重彦が松浦寿輝詩集に寄せたテキストからの引用――
『「権利」なしに書くものたちが期待するのは、もっぱら「才能」である。であるが故に、そこでは退屈さとめぐりあうことしかないだろう。』

この一文からだけ察するに、「才能」とは技巧を駆使する能力のように映ります。

ついでに「権利」の辞書的な意味――
『ある物事をしてよい、またはしないでよいという資格。』

〝しないでよい〟という資格、というのがミソでしょうか。

たとえば、私のテリトリーである美術に照らし合わせてみます。才能(技巧を駆使する能力)によって描かれる絵画は大衆を魅了しますが、新しいビジョンは切り開きません。才能から逸脱することで、かつて経験しなかったものを見いだすことが出来ます。しかし、才能から逸脱する「権利」を得るためには、充分な才能を備えていなければならない。つまり、才能を使わないという選択ができるのは、才能を持つものだけに与えられる権利、ということでしょうか。

さて、世の中は才能を賛美します。
才能豊かな作品は、美術であれ、音楽であれ、文学であれ、多くの人に心地よく映るでしょう。
しかし、才能を逸脱した作品は、おそらく奇異に映る。そして、才能を有する者があえてそれを駆使しないで作ったものか、才能のない者が苦し紛れに作ったものかは、多くの人に見分けがつかない。才能の先に「権利」があることを知らない者にはわからない……そういうことなのではないのかな、と思うのです。確かに「権利」の存在を知る者にとって、「才能」は想像の範囲を超えることがなく退屈に思うこともあるでしょう。

ここで、モモセさんに反論?します(ゴメンナサイ)
(あくまで「権利」「才能」という用語の解釈の問題なのですが……)
松浦寿輝の〝詩〟については、判断できませんが(私は何度も言うように〝詩〟がよくわからないので)、彼の小説『ものたはむれ』は、(上記のような意味において)才能によって書かれたものに思われます。そして、金城一紀の小説しかり。
私は、才能による作品を必ずしも退屈だとは思いません。むしろ、才能の高みにおいて創作された作品はその姿に調和(あるいは計算された不調和)がありとても魅力的です。しかし、そこに心躍る不安もなく、イライラするどうしようもない歪みもなく、一抹の物足りなさを感じてしまうのです。

以上、いろいろなお話は、読書会で。



[125] 金城一紀著『対話篇』について

投稿者: モモセ 投稿日:2017年 7月20日(木)20時47分53秒 FL1-60-236-46-198.tky.mesh.ad.jp  通報   返信・引用

かつて蓮實重彦は詩人、松浦寿輝の詩を「権利」により書かれたものであると言った。金城一紀の書く小説も、私は「権利」により書かれたものであると解釈している。では、金城一紀のもう一つの成果である、すべてに渡り、原案、脚本を担当したTVドラマ『SP』、『BODER』、『CRISIS』の場合はどうであろうかという問いがある。私自身の考えでは『才能』であると解釈している。

では、小説が『権利』であり原案、脚本作品が『才能』であるといった根拠は何であるのだろうか。金城一紀は周知の通り、シネフィルである。小説作品の中に『映画編』という著作があり、『対話篇』も映画的な技法をふんだんに持ち込んだ著作であるが、これは、誰の目にも明らかな、活字のみで書かれた物語である。しかし、脚本というものも活字で書かれた作品であることに変わりはない。小説作品が活字で書かれた物語であることに終始するのに対し、脚本作品(私は脚本だけでも一つの独立した作品であると思っています)は、脚本に書かれた活字をまさしく映像化する目的の達成のために書かれた作品である。しかし、映像化するにあたり、俳優、監督、といった集団で形成される共同において作業がなされるのであり、原案、脚本を担当する金城一紀もその集団の中の一人である。そのため、一見、「権利」に映るかもしれないが、金城一紀が、シネフィルであるという確固たる証拠が『才能』であると私は思い続けている。

松浦寿輝は以前、『麒麟』という名の同人誌に参加していた。蓮實重彦は、『麒麟』についてこう書いている。どうやら、グループは「才能」によって内部の安定をはかり、個人は「権利」によって安定に逆らい、言葉との関わりをさぐりあてるもののようだ。この蓮實重彦の言葉を借り、金城一紀の存在を飛躍させれば、映像の一員である、金城一紀は『才能』により組織の中で安定をはかっているというのは強引な考えであろうか。



[119] 「ロリータ」再再読

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 2月 9日(木)16時22分17秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この小説に何が描かれているかというと「何もない」ということか。
 スキャンダラスなテーマこそだがこの手の話はごまんとあるしその筋の「エロ小説」の類は結構はるか昔からありそうだ。
 と言ってそれがかっこつけた「ブンガク」というジャンルに「昇格」したから「珍しい」のだという点にもありそうでない。
 一見文章が込み入っていて「何か複雑な仕掛け」を潜ませてもいるのだろうかと「期待」もしたのだけど私のは「解らな」かった。だといって最初に記した様に「何もない」と断言するのも自信がなくなった。何なのだろうかこの読後感は。再度いうが「よくわからない」というのが「正直」なところだ。
 ちなみに余計な知識でありますが日本の「婚姻法」でハンバートがロリータの年齢がもう少し上で「同意」が仮にあったとして「婚姻届け」を役所に提出しても決して「受理」はされないはずだ。これはロリータの年齢の問題ではなく一旦親子関係を法律上形成したら(血のつながりがなくても)いくら籍を抜いても決して「夫婦」にはなれないのであります。その位「ファミリー」というのは「古典的共同体」なのであります。おそらく欧米でも同様だと思います。同居はできますけどね。以上蛇足。



[118] 『ロリータ』

投稿者: 天野 投稿日:2017年 2月 2日(木)09時17分52秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

 そもそも、年末番外の候補として挙げた作品です。読書会の勢いで読み終えようという目論見でした。提案した時点で私は未読でした。そして、未読の名作は安易な情報で往々にして誤解される(している)。きっとこの作品も、インモラルな側面――少女に対する愛好癖――ばかりが先行して、文芸的な面での評価が一般に伝わっていない。ただし、その誤謬こそが作品の力、とさえ感じてしまうような奇妙な比類のない作品なのだな……と感じた次第。
 お当番としてのちょっとした義務感もあり、少しだけ書いておきます。
・・・
 一人称の物語は、語り手が本人であるという時点でトラップが仕込まれます。物事の全てが主観に塗れ、それがたとえ事実であったとしても編集され解釈されて、その一面を垣間見ることしかできません。一人称であるという時点で虚構であり、虚構として暗黙のうちに約束されているため相殺されて、読者はあたかも現実の出来事であるようなリアリティを求めることができる。ところが、ここにメタレベルのテキストが一行でも挿入されると、約束はたちまち反故にされてしまいます。
 ナボコフの『ロリータ』は、少女との関係を直接的に描きながらも、その実何が書かれているのかまるでわからない。読者が読み進めながら構築した虚実のレベルがいつの間にか崩されているような、ある意味とても「ふざけた」作品です、ね?
 この作品は、解釈がいろいろ議論されているようですが、その手の評論を今後一切読むのは止めようと思いました。そんな議論そのものが、この作品の範疇を出られない悪あがきにしか見えない。どんなに解釈したところで、序文を書いた精神科医と同じ地平に立つことがやっとできるだけではないのかな。テキストはそこに書いてある以上のことは書かれていません。それに、作家が書いた一語一語全てに計画された意図があるとは限らないし、そんな作品は絶対につまらない。
 ちょっとばかり整理しておくと、このテキストは、
# H・Hの筆名で書かれた手記であること
# H・Hが明らかに読者を意識して語りかけていること
# 依嘱された精神科医が編集していること
# ウラジミール・ナボコフが著者であること
# 英語で書かれたテキストであること
# H・Hの母国語はフランス語であること
# ナボコフの母国語はロシア語であること
 もう、これだけでまともなテキストではありません。こんなものから、何かを読み取ろうとすること自体がお笑いです。
 直接的なモチーフとなっている少女への嗜好や愛情もなかなか複雑です。
# ニンフェットに対する全般的な嗜好と愛情
# ドロレスというニンフェットへの嗜好と愛情
# ドロレスへの愛情
 もちろん、嗜好と愛情は全く別物なのですが、これは一般的にわかりにくいのかなと思います。嗜好=愛情、あるいは嗜好の発展としての愛情と理解すれば、それはきっとわかりやすいのでしょうが、それでは対象への価値観がたちまち陳腐になってしまう。もっとも、この作品においてその境界は語り手本人にもちゃんと整理されていないように感じます。また、ニンフェット=少女ではないし、必ずしも処女性が問われているわけでもない。メンタルとフィジカルにも直接的な関係がない。
 とても面白いテキストです。言葉で表現することの意味や限界を考えさせられる作品です。(自分の能力の問題で)翻訳でしか読めないことがとても悔しい……。



[117] 詩歌企画~

投稿者: 天野 投稿日:2017年 1月15日(日)12時02分24秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

 11月、読書会の帰り道でした。中央線の東京行き最終の中で、私はヤマグチさんコバヤシさん相手に「詩はよくわからない~」という話をしていました。その日の読書会はダイベック『シカゴ育ち』で、私は彼の詩集も入手し読んでいたのですが、小説のように言葉が入ってこない。それは、ダイベックだから、とか翻訳だからではなく、私にとって「詩」という作品がとても掴みづらい。どんなに、これは良い詩だといわれても、どこが良いのかわからない。だから、「詩はよくわからない」。そのくせ私は、吉増剛造を最も好きな詩人としてあげたりもます。ですが、彼の詩集に感銘を受けたわけではなく、彼の朗読に引き込まれました。彼の声を通して、その言葉が入ってきた。詩集も何冊か読んだことがありますが、印刷された文字ではやはり、何が良いのかわかりませんでした。だから、私にとって詩は「理解できない」のです。三人の間でいろいろやりとりがありました。別に詩が嫌いなわけでも、拒否しているわけでもなく、ただわからないのだ……私は、それを伝えるのに、なんだかとても苦労していました。
 散文のような詩はどうなのだ? 物語のような詩もある。それは、知っています。でも、もし、それを私が散文や物語として評価できたとしても、詩として評価できたわけではない。詩的な言い回しはわかります。詩の中に言葉として冴えた表現を見つけることもあります。しかし、ひとつの作品になったとき、全体の姿が見えない。
 コバヤシさんが高円寺で下車し、ヤマグチさんと私が新宿で降りるまでそんな話をどうどう巡りのようにしていました。
 数日して、そういえば……と私は、思い出します。「わからない」ので詩歌はあまり読まないのですが、数年前に穂村弘の歌集を読んで、面白いと感じたことがありました。それが、今回の企画で私が挙げた穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』です。かなり変化球の歌集ですが、これを番外でやってみようか、と考えました。私の詩歌に対する無理解を掘り下げる?というのが個人的な目論見、です。考えているうち、せっかくだからコバヤシさんも巻き込んでみようか、コバヤシさんにも1冊選んでもらって、アマノ選とコバヤシ選の2冊をネタに、詩歌について考える読書会にしてみてはどうだろう。コバヤシさんにメールすると、快諾の返事があり、企画始動とあいなりました。
 あらかじめ、言っておきます。私に詩を「理解」させようと思っても無理です。正直に言えば「理解したい」とも思っていません。理解できるときにはできるし、できないときはできない。頭でわかるものではなく、身体で感じるものだと思っています。それは、私自身の問題です。ただ、皆さんとお話しし、いろいろな意見を聞くことで私自身の詩歌に対するスタンスがもう少しはっきりするんじゃないかと思っています。
 この機に、自分の好きな詩歌や詩集などをそれぞれ持ち寄ってもらってもいいんじゃないか……コバヤシさんが先日の読書会の席で言ってましたね。それもいいと思います。
 アルカディアの読書会で詩歌を取り上げるのは初めてです。実現したときに、みなさんと面白い話ができればいいな、と、思っています。



[116] ~~~

投稿者: 天野 投稿日:2017年 1月 7日(土)10時17分7秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

[115]トムロさんの書き込みには、小山程度の反論があります(笑)。やっぱり、読書会した方がいいですね、これ(笑)。
ひとことだけ。トムロさんの書き込みを読んでいると、ご自身が「そう読みたい」と思っている方向へバイアスがかかっているように思えるのです。



[115] プリズン・ブック・クラブ再考

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 1月 6日(金)11時49分39秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この本の著者の狙いは何なのだろうか?平板な解説をあえてすればあの恐ろしい凶悪な犯罪を犯した囚人達がおしなべて我々と同じような「普通の感性」の持ち主であるという事になろうか。
 女性の筆者はこの読書会の直前暴漢に襲われトラウマとなるような「心の傷」を追う事になる。しかしこの恐怖を圧して読書会をあえて刑務所の中で行う事になる。この落差たるや普通の婦女子の精神的キャパを超えていると推測するのが尋常だろう。
 しかし筆者は暴漢と同じような「精神」を持った「囚人たち」を予想しつつ「構えて」この任務に就くわけだが予想に反して対象の囚人たちは自分と同等の「普通の感性」を持った人間であることに拍子抜けをするわけだ。ここがミソと言えばミソになる。
 我々は人間と付き合う場合ある「パターン認識」を持って接することになる。人間年を取れば取るだけこの固定化され、ステレオタイプとしてあるいは教科書的人物像を予備知識としての「色眼鏡」で他者を見るようになる。これはある意味「経験」のたまものでもある。その意味で世の中より人間社会より「ドロップアウト」した「凶悪な囚人」というくくりは上記の類別化の「典型」として認識されるわけだが。筆者はおそらくあえて刑務所での「読書会」のやり取りを平板に記述したものと思えた。
 どこにでも居る「団地妻」や放課後の「学生」やアフター5の職場を対象にした「読書会」と落差のないものとしてそのやり取りを淡々と描いているのだ。囚人たちは特に強烈な「個性」を持った人物もさほどなく「プリズン」という形容を取り去ればおそらく「退屈」な作品群(もちろん文章のうまさはあえて省くが)とさして差はないのだろうと思った次第。その意味で私は「平板」と評した。
 あえて私が興味を持ったのはこの読書会から「脱落」した者や仮釈後に同じような「凶悪な犯罪」を再犯し再収監された人物たちである。その彼らにとって筆者が「組織」した「読書会」なるものの「影響」は何だったのだろうかという一点である。私はそちらの方にえらい興味があります。
 この本を推薦されたT氏は職業として法曹界におられその海の中から職業者よりの視点で興味を持ったのかなとあえて私の偏見で推測した次第。

 PS
 私にとっての読書とは「ルーチンワーク」としてなってしまったがその「病根」は「焦燥感」そのものでありました。何とか「世界と人間」を把握したい(所詮そんなこと土台無理なのだが)そのためには読書量を増やさなければという思いでありました。そのためより「難しい作品」を読まなければとの決意でありましたがこちらの能力の問題もありほとんどが「消化不良」で終わっています。
 であるため「読書を楽しむ」という事が出来ませんでした。そしてここにきて70歳に手が届くようになり肉体的(視力低下)精神的(根が続かない)劣化は隠しおおせもなくより一層の焦りが高じております。
 そしてこの頃は私自身それほど「読書」が好きではないのだろうかと思うようになりました。
 そんなわけです。以上



[114] 『プリズン・ブック・クラブ』

投稿者: 天野 投稿日:2017年 1月 5日(木)21時15分24秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

『プリズン・ブック・クラブ』(アン・ウォームズリー著 向井和美訳 紀伊國屋書店)は、そのタイトルどおり刑務所で開かれた読書会のドキュメンタリーです。昨年末、タジマさんが掲示板に書きこんでいらっしゃいました。それを見た直後、近所の比較的小さな書店に寄ったら、たまたま平積みになっていたのでとりあえず購入。秋に出たばかりの書籍です。
 カナダのある刑務所で開かれている読書会に、ボランティアとして参加した著者がその様子を伝えています。 その過程は、トムロさんが表の掲示板に書かれたように平板で、特にドラマがあるわけではありません。私たちの読書会が、特にドラマティックではないのと同じです。著者はジャーナリストですが、ときおり挟み込まれる詩的、文学的な表現が正直鼻につきます。
 ですが、読書会のその様子を読んでいるうち、囚人達が読書に何を求めているのかが気になってきます。囚人達だけではなく、読書会をリードするボランティアの書籍や文学に対する意識や価値観も気にかかってきます。そして、それは、私自身が読書に何を求めているのかという問いかけとして跳ね返ってきます。
 先日、アルカディアの忘年会でトムロさんと少しお話をしましたが、トムロさんの「心に響かない」のは、きっとトムロさんが日常的に読書をしている方だからだと思うのです(ご本人も読書を「ルーチン」と言われていました)。私はといえば、前々からことあるたびに言っているのですが、決して読書が好きなわけではありません。意識しないと本を読まなくなります。精神状態が悪いと読めなくなります。たぶん、世間一般の平均よりも読書量は多いと思うのですが、そこそこ意識して読書に取り組んでいます。
 それじゃあ、お前はなぜ「読む」のか?
 以前にも少し話したことがあるので、聞き覚えのある方もいらっしゃるかもしれませんが、私は「書籍」というメディアに興味を惹かれます。別に「本」という「形式」が好きだというわけではありません。だから、写真集や画集など(コミックを含めてもいいでしょう)には全く興味がありません。また、ペーパーメディアでもデジタルメディアでも同じです。「言葉」による書籍という概念に惹かれているのではないかと思うのです。そして、それらの書籍は、読了することで完成する。だから、読む。たぶん。たぶん、などと曖昧にお茶を濁すのは、自分でもよくわからないからです。
 あと、もうひとつ。これは今までにあまり話したことはないのですが、軽い脅迫観念のようなものがあります。本を読まなくなった時、何かを失ってしまいそうなごくごく軽い恐怖心? なぜ、そんなことを感じるのかも自分ではよくわかりません。
 まあ、自分のことを語り出せばまだまだあるのですが、とりあえずこんなところにして、『プリズン・ブック・クラブ』は、自分自身の読書の意味を間接的に考えさせる鏡のような本だと思うわけです。
 いずれ、アルカディアの読書会でも取り上げていいんじゃないかと思います。そして、なぜ本を読むのか、今一度考えても面白いかと。


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