読書会@Arcadia-2

アルカディア読書会、ネタバレ専用?掲示版です。読了した課題図書についての感想を思い切り書いてください(笑)。 読了していない人はうっかり見ないように注意しましょう。



カテゴリ:[ 読書/書評 ]


114件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[119] 「ロリータ」再再読

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 2月 9日(木)16時22分17秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この小説に何が描かれているかというと「何もない」ということか。
 スキャンダラスなテーマこそだがこの手の話はごまんとあるしその筋の「エロ小説」の類は結構はるか昔からありそうだ。
 と言ってそれがかっこつけた「ブンガク」というジャンルに「昇格」したから「珍しい」のだという点にもありそうでない。
 一見文章が込み入っていて「何か複雑な仕掛け」を潜ませてもいるのだろうかと「期待」もしたのだけど私のは「解らな」かった。だといって最初に記した様に「何もない」と断言するのも自信がなくなった。何なのだろうかこの読後感は。再度いうが「よくわからない」というのが「正直」なところだ。
 ちなみに余計な知識でありますが日本の「婚姻法」でハンバートがロリータの年齢がもう少し上で「同意」が仮にあったとして「婚姻届け」を役所に提出しても決して「受理」はされないはずだ。これはロリータの年齢の問題ではなく一旦親子関係を法律上形成したら(血のつながりがなくても)いくら籍を抜いても決して「夫婦」にはなれないのであります。その位「ファミリー」というのは「古典的共同体」なのであります。おそらく欧米でも同様だと思います。同居はできますけどね。以上蛇足。




[118] 『ロリータ』

投稿者: 天野 投稿日:2017年 2月 2日(木)09時17分52秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

 そもそも、年末番外の候補として挙げた作品です。読書会の勢いで読み終えようという目論見でした。提案した時点で私は未読でした。そして、未読の名作は安易な情報で往々にして誤解される(している)。きっとこの作品も、インモラルな側面――少女に対する愛好癖――ばかりが先行して、文芸的な面での評価が一般に伝わっていない。ただし、その誤謬こそが作品の力、とさえ感じてしまうような奇妙な比類のない作品なのだな……と感じた次第。
 お当番としてのちょっとした義務感もあり、少しだけ書いておきます。
・・・
 一人称の物語は、語り手が本人であるという時点でトラップが仕込まれます。物事の全てが主観に塗れ、それがたとえ事実であったとしても編集され解釈されて、その一面を垣間見ることしかできません。一人称であるという時点で虚構であり、虚構として暗黙のうちに約束されているため相殺されて、読者はあたかも現実の出来事であるようなリアリティを求めることができる。ところが、ここにメタレベルのテキストが一行でも挿入されると、約束はたちまち反故にされてしまいます。
 ナボコフの『ロリータ』は、少女との関係を直接的に描きながらも、その実何が書かれているのかまるでわからない。読者が読み進めながら構築した虚実のレベルがいつの間にか崩されているような、ある意味とても「ふざけた」作品です、ね?
 この作品は、解釈がいろいろ議論されているようですが、その手の評論を今後一切読むのは止めようと思いました。そんな議論そのものが、この作品の範疇を出られない悪あがきにしか見えない。どんなに解釈したところで、序文を書いた精神科医と同じ地平に立つことがやっとできるだけではないのかな。テキストはそこに書いてある以上のことは書かれていません。それに、作家が書いた一語一語全てに計画された意図があるとは限らないし、そんな作品は絶対につまらない。
 ちょっとばかり整理しておくと、このテキストは、
# H・Hの筆名で書かれた手記であること
# H・Hが明らかに読者を意識して語りかけていること
# 依嘱された精神科医が編集していること
# ウラジミール・ナボコフが著者であること
# 英語で書かれたテキストであること
# H・Hの母国語はフランス語であること
# ナボコフの母国語はロシア語であること
 もう、これだけでまともなテキストではありません。こんなものから、何かを読み取ろうとすること自体がお笑いです。
 直接的なモチーフとなっている少女への嗜好や愛情もなかなか複雑です。
# ニンフェットに対する全般的な嗜好と愛情
# ドロレスというニンフェットへの嗜好と愛情
# ドロレスへの愛情
 もちろん、嗜好と愛情は全く別物なのですが、これは一般的にわかりにくいのかなと思います。嗜好=愛情、あるいは嗜好の発展としての愛情と理解すれば、それはきっとわかりやすいのでしょうが、それでは対象への価値観がたちまち陳腐になってしまう。もっとも、この作品においてその境界は語り手本人にもちゃんと整理されていないように感じます。また、ニンフェット=少女ではないし、必ずしも処女性が問われているわけでもない。メンタルとフィジカルにも直接的な関係がない。
 とても面白いテキストです。言葉で表現することの意味や限界を考えさせられる作品です。(自分の能力の問題で)翻訳でしか読めないことがとても悔しい……。



[117] 詩歌企画~

投稿者: 天野 投稿日:2017年 1月15日(日)12時02分24秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

 11月、読書会の帰り道でした。中央線の東京行き最終の中で、私はヤマグチさんコバヤシさん相手に「詩はよくわからない~」という話をしていました。その日の読書会はダイベック『シカゴ育ち』で、私は彼の詩集も入手し読んでいたのですが、小説のように言葉が入ってこない。それは、ダイベックだから、とか翻訳だからではなく、私にとって「詩」という作品がとても掴みづらい。どんなに、これは良い詩だといわれても、どこが良いのかわからない。だから、「詩はよくわからない」。そのくせ私は、吉増剛造を最も好きな詩人としてあげたりもます。ですが、彼の詩集に感銘を受けたわけではなく、彼の朗読に引き込まれました。彼の声を通して、その言葉が入ってきた。詩集も何冊か読んだことがありますが、印刷された文字ではやはり、何が良いのかわかりませんでした。だから、私にとって詩は「理解できない」のです。三人の間でいろいろやりとりがありました。別に詩が嫌いなわけでも、拒否しているわけでもなく、ただわからないのだ……私は、それを伝えるのに、なんだかとても苦労していました。
 散文のような詩はどうなのだ? 物語のような詩もある。それは、知っています。でも、もし、それを私が散文や物語として評価できたとしても、詩として評価できたわけではない。詩的な言い回しはわかります。詩の中に言葉として冴えた表現を見つけることもあります。しかし、ひとつの作品になったとき、全体の姿が見えない。
 コバヤシさんが高円寺で下車し、ヤマグチさんと私が新宿で降りるまでそんな話をどうどう巡りのようにしていました。
 数日して、そういえば……と私は、思い出します。「わからない」ので詩歌はあまり読まないのですが、数年前に穂村弘の歌集を読んで、面白いと感じたことがありました。それが、今回の企画で私が挙げた穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』です。かなり変化球の歌集ですが、これを番外でやってみようか、と考えました。私の詩歌に対する無理解を掘り下げる?というのが個人的な目論見、です。考えているうち、せっかくだからコバヤシさんも巻き込んでみようか、コバヤシさんにも1冊選んでもらって、アマノ選とコバヤシ選の2冊をネタに、詩歌について考える読書会にしてみてはどうだろう。コバヤシさんにメールすると、快諾の返事があり、企画始動とあいなりました。
 あらかじめ、言っておきます。私に詩を「理解」させようと思っても無理です。正直に言えば「理解したい」とも思っていません。理解できるときにはできるし、できないときはできない。頭でわかるものではなく、身体で感じるものだと思っています。それは、私自身の問題です。ただ、皆さんとお話しし、いろいろな意見を聞くことで私自身の詩歌に対するスタンスがもう少しはっきりするんじゃないかと思っています。
 この機に、自分の好きな詩歌や詩集などをそれぞれ持ち寄ってもらってもいいんじゃないか……コバヤシさんが先日の読書会の席で言ってましたね。それもいいと思います。
 アルカディアの読書会で詩歌を取り上げるのは初めてです。実現したときに、みなさんと面白い話ができればいいな、と、思っています。



[116] ~~~

投稿者: 天野 投稿日:2017年 1月 7日(土)10時17分7秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

[115]トムロさんの書き込みには、小山程度の反論があります(笑)。やっぱり、読書会した方がいいですね、これ(笑)。
ひとことだけ。トムロさんの書き込みを読んでいると、ご自身が「そう読みたい」と思っている方向へバイアスがかかっているように思えるのです。



[115] プリズン・ブック・クラブ再考

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2017年 1月 6日(金)11時49分39秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この本の著者の狙いは何なのだろうか?平板な解説をあえてすればあの恐ろしい凶悪な犯罪を犯した囚人達がおしなべて我々と同じような「普通の感性」の持ち主であるという事になろうか。
 女性の筆者はこの読書会の直前暴漢に襲われトラウマとなるような「心の傷」を追う事になる。しかしこの恐怖を圧して読書会をあえて刑務所の中で行う事になる。この落差たるや普通の婦女子の精神的キャパを超えていると推測するのが尋常だろう。
 しかし筆者は暴漢と同じような「精神」を持った「囚人たち」を予想しつつ「構えて」この任務に就くわけだが予想に反して対象の囚人たちは自分と同等の「普通の感性」を持った人間であることに拍子抜けをするわけだ。ここがミソと言えばミソになる。
 我々は人間と付き合う場合ある「パターン認識」を持って接することになる。人間年を取れば取るだけこの固定化され、ステレオタイプとしてあるいは教科書的人物像を予備知識としての「色眼鏡」で他者を見るようになる。これはある意味「経験」のたまものでもある。その意味で世の中より人間社会より「ドロップアウト」した「凶悪な囚人」というくくりは上記の類別化の「典型」として認識されるわけだが。筆者はおそらくあえて刑務所での「読書会」のやり取りを平板に記述したものと思えた。
 どこにでも居る「団地妻」や放課後の「学生」やアフター5の職場を対象にした「読書会」と落差のないものとしてそのやり取りを淡々と描いているのだ。囚人たちは特に強烈な「個性」を持った人物もさほどなく「プリズン」という形容を取り去ればおそらく「退屈」な作品群(もちろん文章のうまさはあえて省くが)とさして差はないのだろうと思った次第。その意味で私は「平板」と評した。
 あえて私が興味を持ったのはこの読書会から「脱落」した者や仮釈後に同じような「凶悪な犯罪」を再犯し再収監された人物たちである。その彼らにとって筆者が「組織」した「読書会」なるものの「影響」は何だったのだろうかという一点である。私はそちらの方にえらい興味があります。
 この本を推薦されたT氏は職業として法曹界におられその海の中から職業者よりの視点で興味を持ったのかなとあえて私の偏見で推測した次第。

 PS
 私にとっての読書とは「ルーチンワーク」としてなってしまったがその「病根」は「焦燥感」そのものでありました。何とか「世界と人間」を把握したい(所詮そんなこと土台無理なのだが)そのためには読書量を増やさなければという思いでありました。そのためより「難しい作品」を読まなければとの決意でありましたがこちらの能力の問題もありほとんどが「消化不良」で終わっています。
 であるため「読書を楽しむ」という事が出来ませんでした。そしてここにきて70歳に手が届くようになり肉体的(視力低下)精神的(根が続かない)劣化は隠しおおせもなくより一層の焦りが高じております。
 そしてこの頃は私自身それほど「読書」が好きではないのだろうかと思うようになりました。
 そんなわけです。以上



[114] 『プリズン・ブック・クラブ』

投稿者: 天野 投稿日:2017年 1月 5日(木)21時15分24秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

『プリズン・ブック・クラブ』(アン・ウォームズリー著 向井和美訳 紀伊國屋書店)は、そのタイトルどおり刑務所で開かれた読書会のドキュメンタリーです。昨年末、タジマさんが掲示板に書きこんでいらっしゃいました。それを見た直後、近所の比較的小さな書店に寄ったら、たまたま平積みになっていたのでとりあえず購入。秋に出たばかりの書籍です。
 カナダのある刑務所で開かれている読書会に、ボランティアとして参加した著者がその様子を伝えています。 その過程は、トムロさんが表の掲示板に書かれたように平板で、特にドラマがあるわけではありません。私たちの読書会が、特にドラマティックではないのと同じです。著者はジャーナリストですが、ときおり挟み込まれる詩的、文学的な表現が正直鼻につきます。
 ですが、読書会のその様子を読んでいるうち、囚人達が読書に何を求めているのかが気になってきます。囚人達だけではなく、読書会をリードするボランティアの書籍や文学に対する意識や価値観も気にかかってきます。そして、それは、私自身が読書に何を求めているのかという問いかけとして跳ね返ってきます。
 先日、アルカディアの忘年会でトムロさんと少しお話をしましたが、トムロさんの「心に響かない」のは、きっとトムロさんが日常的に読書をしている方だからだと思うのです(ご本人も読書を「ルーチン」と言われていました)。私はといえば、前々からことあるたびに言っているのですが、決して読書が好きなわけではありません。意識しないと本を読まなくなります。精神状態が悪いと読めなくなります。たぶん、世間一般の平均よりも読書量は多いと思うのですが、そこそこ意識して読書に取り組んでいます。
 それじゃあ、お前はなぜ「読む」のか?
 以前にも少し話したことがあるので、聞き覚えのある方もいらっしゃるかもしれませんが、私は「書籍」というメディアに興味を惹かれます。別に「本」という「形式」が好きだというわけではありません。だから、写真集や画集など(コミックを含めてもいいでしょう)には全く興味がありません。また、ペーパーメディアでもデジタルメディアでも同じです。「言葉」による書籍という概念に惹かれているのではないかと思うのです。そして、それらの書籍は、読了することで完成する。だから、読む。たぶん。たぶん、などと曖昧にお茶を濁すのは、自分でもよくわからないからです。
 あと、もうひとつ。これは今までにあまり話したことはないのですが、軽い脅迫観念のようなものがあります。本を読まなくなった時、何かを失ってしまいそうなごくごく軽い恐怖心? なぜ、そんなことを感じるのかも自分ではよくわかりません。
 まあ、自分のことを語り出せばまだまだあるのですが、とりあえずこんなところにして、『プリズン・ブック・クラブ』は、自分自身の読書の意味を間接的に考えさせる鏡のような本だと思うわけです。
 いずれ、アルカディアの読書会でも取り上げていいんじゃないかと思います。そして、なぜ本を読むのか、今一度考えても面白いかと。



[113] 読書会@アルカディア 通算100回

投稿者: 天野 投稿日:2016年12月10日(土)00時40分33秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用   編集済

 12月10日の年末番外読書会で、通算100回目を迎えます。
 2009年9月が始まりですので、まるっと7年続いたことになります。よく続きました。最少メンバー2人でもできますから、まだしばらく続くと思います。
 忘れ去られてしまうといけないので、まず、始まりのことを少し思い出しておきましょう。
 2009年当時、アルカディアのランチタイムは高村さんが担当していました。ある日、私がランチに行くと、高村さんが読書会をする、と、チラシを見せてくれました。私は、高校で文芸部に所属していたこともあり、読書会という集まりそのものが懐かしく感じられましたので、参加することにしました。また、ちょうどその頃は、“読書会”が日本中でささやかに流行していた時期でもあります。前年に映画『ジェーン・オースティンの読書会』が公開されて話題になったことがその一因だったと覚えています。正直に言えば、「高村、流行り物に乗った、か」と思いました。
 高村さんが最初の課題として選んだのはタオ・リンというアメリカの作家の『イー・イー・イー』といういわばポストモダン的作品で、彼女は翻訳者の山崎まどかさんに興味があったようです。読みにくくはありませんが、決して易しい小説ではありません。オーソドックスな文学しか知らない人には、ただわけのわからない作品に映るのではないか、と。にもかかわらず、たしか8人ほど集まりました。
 読書は、きわめてパーソナルな作業です。その作品について、誰かと話し合う機会などほとんどありません。たまたま読書好きがふたりいても、読んでいる傾向が全く異なれば本の話をしたくてもできません。一冊の本を話題にするのは、平凡な日常において案外難しい。同じ本を読んでどう感じたかを話したい、聞きたいという欲求を意識的にも無意識的にも抱いていた人が、アルカディアの周辺にもぽつぽついた、ということです。
 以来7年余、月一のレギュラー回に加え、その間に誰かが提案して有志?で開く番外含め100回。私は、続くと思っていなかったし、続かないとも思っていなかった。つまりはたいした考えもなくやっていたら、100回になっちゃった……的な100回です。キックオフをした高村さんは既に参加していませんが、最初の一撃をかました彼女の功績はとても大きい。
                                      *
 都内で開かれている読書会について、しばしば耳にすることもあるのですが、お勉強的な要素が強かったり、同じような趣味の人たちが集まっていたりといろいろです。例えば、お勉強会的読書会ではその本の意味をより深く探ることが目的になりますし、趣味が共通した方々の集まりではメンバーが興味を引きそうな作品が課題に選ばれているようです。
 アルカディアの読書会は、雑多な集まりです。読書の傾向、読書の姿勢、読書量……みんなそれぞれでまるでまとまりがない。職業も八百屋さんがいて、文筆業がいて、会社員がいて、大学の先生がいてと、共通性も一貫性もない。これまでの課題を一覧しても、特に傾向があるわけではない。従って、考え方も感じ方も多様です。メンバーの誰かが選ぶ課題にしたって趣味に合うものも、合わないもの、興味の湧くもの、湧かないものといろいろ出てきます。メンバーは出席を強制されているわけではないので、出された課題に関心がもてなければ出席しないという選択もあるのですが、みなさん、それに気がついているのかいないのか、不思議とそういう人はあまりいない。少なくとも表立っての欠席理由としては聞こえてこない。だからでしょうか、面白かったとか面白くなかったとか、そんなあたりまえの感想をベースにしながら、みなさん、自分の視点でいろいろな考えを述べる。基本姿勢は「酒のつまみに本の話」です。もっとも読書会中飲んだくれる方は僅かで、しっかり何度も読み返していらっしゃる方もいます。課題に関する参考資料を持ち込む方も、同じ作家の別の作品を数冊読んでくる(って、ときどき私ですが)人もいる。しばしば、なかなかレベルの高いお話になる。
 振り返れば、そのバラバラで、いい加減な感じがよかったのだと思います。読書会中、たびたび「課題にならなかったら、絶対に読むことがなかった」という台詞を聞きます。私自身にもそれはあります。課題になったことをきっかけに読書の範囲が広がることも、この作家はこれ以上読まなくていいと思うこともある。個人作業である読書に、ちょっとした揺らぎを与えるのが、この読書会なのではないか、そう思います。
 同じような会が他にあるのかは知りません。でも、憶測ですが、あんまり無いんじゃないかと思います。
                                      *
 3年目に突入した頃だったと思います。私は連絡用に掲示板を作りました。それまで、次の読書会のスケジュールはメールで回していたのですが、これがなかなか面倒臭い。そんなわけで、勝手に作ってしまいました。こんなの作っておいたから、休んだ人は見るように!で連絡完了です。それに過去の課題を記録しておけば、適当に回していた課題の当番も少しわかりやすくなります。だから、ついでに一覧も作ってしまいました。掲示板をネットで見つけて、参加した方もいます。案外、これも100回続けられた一因ではないかと、ちょっとばかり自負するのですが、どうでしょう。
 掲示板を作ったことと、生来の仕切り癖を発揮してしまうことがしばしばあって、外側の目には私が主宰していると勘違いされるのですが、基本、ただの掲示板管理人で、ちょっとした調整係です。アルカディアを名告っておきながら、お店が主催しているわけでもなく、主催者/主宰者がいないというか、曖昧なのもこの会の特徴なのでしょう。なんとなく集まってなんとなく話をする。
 今後いつまで続くのでしょう。それも、ひとつの興味です。
 順当に月一ペースで開催すれば、再来年の2月にレギュラー回が100をカウントします。あと3年足らずで10年になります。そこまで続いていたら面白いなと思います。
                                      *
 では、みなさん。これからもよろしくお願いいたします。
 そして、渾身?の一冊を紹介してください。
 面白ければ、その出会いを与えていただいたことに心から感謝します。
 つまらなければ、敬意をもってディスります(?)。

                                                                            天野



[112] Re: 年末の課題本「邪宗門」の距離感

投稿者: 天野 投稿日:2016年11月 7日(月)19時30分19秒 165-100-188-132.tokyo.ap.gmo-isp.jp  通報   返信・引用 > No.111[元記事へ]

やっと読み終えました。
私は、トムロさんとはまるで違った読みをしています。武装蜂起以降が要で、それまではとても長い前置きなのではないか、と。武装蜂起以前は、対立や葛藤など、当時の社会情勢の中で実際にあった(あり得た)出来事をフィクションの形でトレースしているかのようです。フィクションとしてもっともダイナミックな部分が武装蜂起以降だと思うのですが。
政治的な革命を社会思想ではなく、宗教的な理念を背景にして実行したらどうなるのか……そんな文学的シミュレーションに見えます。それはそれで面白いのですが、ひとりひとりの人物が描ききれていないように感じてしまいました。最後まで千葉潔の顔が思い浮かばなかった……つまりは、彼が武装蜂起する理由が今ひとつわからない……という、読了直後の感想です。
100年以上前に書かれたドストエフスキーがいまだ読み継がれているのは、宗教や思想を越えてひとりひとりの人物が描かれているからだと思うのです。アレクセイ・カラマーゾフがその後に続く物語の中でテロリストとして処刑されるという構想があったと聞いたことがありますが、それは既刊の物語に萌芽を感じる事が出来そうなのです。
詳細は読書会で。



[111] 年末の課題本「邪宗門」の距離感

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2016年10月18日(火)21時46分2秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
 この本を読むのはおそらく45年ぶりではないか。ほこりが被ったのを取り出しじっくりと読んでみた。
 あれほど感銘を受けたと思われたのだが再読してアレと思う個所がいくつかある。当時の22歳くらいの私が重要な個所にラインを引いているのであるがなんでこんなところにラインを引いたのかよく思い出せなかったり逆にもっと重要と思うところに何も印がない事に「あきれたり」もした。
 残念ながら私の青春時代は「走馬燈」のように思い出させることは残念ながらなかったようだ。これは私自身が物理的に年を取り感性の摩滅からも免れず訳知り顔に堕落したためだとも思える。「距離感」が生じたのは主要にこのためで「経験豊か」になった逆に意味での「自己減点」したためである。
 ただ日本人で19Cのロシア文学並みの虚構能力を持った作品はこの作品以外にはあまり見当たらないように思えたのは再読しても同じであった。
 この作品は戦前の実際にあった新興宗教の盛衰を材料にして書き上げていて事実関係の部分はほぼ事実に近いのであるが教主の姉妹の口からでる「セリフ」はおそらく高橋の言いたいことだったに違いない。部分的にはドストエフスキーの影響が出ていると思ったのは私だけだろうか。
 「土着と理念」「大衆とインテリ」「指導部と信者」の対立と葛藤がよく出ている作品でもある。後半の千葉崇率いる教団の「武装蜂起」はこれ高橋のリップサービスか、私には余分のことのように思えたが。
 そしてこの作品はやはり古くて新しい問題を提示されていていまだ解決のついていない(人間社会では永遠に決着がつかない課題で)のでありその意味でも現在のも通用する問題である。
 この元となった教団は大本教と言い現在も京都府の「亀岡市」にあり、戦前からの「弾圧」によりいくつもの分派が生まれ(生長の家、神霊教、等)隠然とした影響力は減じることがない。宗派的には「神道系」に属するため戦前の「国家神道」との類似点が多くありそれゆえ弾圧の過酷な対象になったのである。
 大本教団が隆盛を極めたのは教祖(日本の新興宗教の全部が女性であるが)の力量というよりもその娘婿の出口王仁三郎のマネージメント力(経営能力)によるところが大きいとされている。今でいうところの近代的多角経営である。逆にそれが新興宗教の「神秘性」をそいだともみられる。
 私の現役中(昭和47年の時)に似たような宗教集団の社会福祉施設の現地調査をした。関西のN県にある施設にて今でいうところの「原始共産制」を取っていた。戦前よりその地方一帯は某新興宗教の最大の拠点地であったのだがその地域の教団の支部長自身の度重なる不幸により「今の教団のあり方では人を救えない」という決断の元、分派結成を断行した。そのため母体の新興宗教からの切り崩しと村八分からその分派を守るため徹底した「共産体制」を取らざるを得なかったようだ。本人たちはいわいる「共産主義」の自覚も教義もなく2重の弾圧に戦前から耐えてきた。一つは母集団の新興宗教からの切り崩しと戦前の特高警察からの敵視と監視の策動からである。(共産主義の嫌疑のため)
 S47年の調査では最低の核として「家族」があるもののそれ以外はほとんど「共同生活」であった。面白かったのはその部落に「知的障碍者の収容施設」を併設していたからであった。(そのための調査であったわけだが)そこでは「専門の訓練された職員」が障碍者にケアするわけでは必ずしもなくその部落の人全員が強弱はあるものの「対応」していたのが印象に残った。その部落では食堂は一つでそこに全員が集合し障碍者と一種に食事をとりいくつもの「工場」にやはり障碍者ともども働きに出ていた。生産性は高く当時で確か年間収益1億と言っていた。今でいうところの「ヤマギシ会」か武者小路の「新しき村」運動みたいなものである。現在はどのようになっているのか定かではない。
 但し近代個人の自由化とは生産性の高度化に伴う「共同体からの個人の自立過程」のことであるためこのような一種の「原始共産制」は時間がたつにつれ「解体」していくのが常道でもあるよう。その意味で人間の個人化、近代化は「自閉症化」であるともされる。個人と集団の「止揚」は人類史の永遠の課題でもあるようだがさて。
 話が飛びました以上



[110] 「ロリータ」の読後感

投稿者: 不破来堂 トムロ 投稿日:2016年 9月15日(木)21時01分54秒 118-83-117-72.htoj.j-cnet.jp  通報   返信・引用

 所感
「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ著 若島正訳 新潮社刊
 これは中年以上の男性にとっては「危険思想」を媒介する書物でもある。いわいる「ロリータコンプレックス」の語源になった作品である。
 高々12歳にも満たない「少女」に分別ある中年男が「恋」をする物語なのだ。それもその娘がほしいためにその母親と結婚し義父とし親子関係を結んでしまい、母親の死後は全米を車で旅し最終的にはいわいる「破局」を迎えるという終末が予定されている。内容は「手記」の形をとっている。
 これでは長い間ピューリタン精神の強烈な米国では「発売禁止」となるのも道理である。ただ主人公の中年男は全人格的にこの少女を「愛して」いたかはかなり疑問の残る物語であるのだ。むしろ自己の「妄想」がそのような「ロリータ」(これも本名ではなく自分が少年時代に恋した少女の名前を他称しただけ)なる架空の人物を作り上げその「幻想に浸って」いるのである。
 彼にとってはこの少女の「成長」はその肉体と精神の「俗物化」としてしか映らず成長過程は彼にとっては少女からの「裏切り」としか反映されないのである。この題材は古くて新しいし古今の「犯罪史」の中で繰り返して起こるもので日本も例外ではない。
 多分に男性一般の胸中に女性を幼いままに「飼育」してみたいというという「深層心理」の部分があるのではないのかと思わせる。少女から女性に脱皮していく様は主体性の形成と同義語であるも、この「ロリータ」の核心はそれへの断固とした拒否にあるようだ。
 この中年男のなまめかしい「手記」は訳者の優秀さもあいまって高度の文脈を作り出してもいて極端にいえば「日本文学」としても通用するくらいだ。ただし欧米のレトリックについて「理解」が出来ない部分も多くあり残念さが残る。あえて最後の結末は記載しない方が期待感があってよいと思い書かないでおく。
 この中年男の心理状態は川端康成やアインシュタインにもみられることゆえこの手の御仁は大いのではあるまいか。
 「児童虐待問題」から行くと典型的な「それ」であり日本全国の「児童相談所」でも「標準的な問題事例」(ありふれた)であることは確かである。以上
 PSこの作品はいずれA氏よりお題として出されるものと思い先行して読んでみました。


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